福島考古第49号 63頁〜82頁所収

あぶくまの古植生を探る

−遺跡発掘調査成果から探る阿武隈山系の植生史−

山内 幹夫

1.はじめに

 阿武隈山地は現在、山地の大部分を占める夏緑樹林のブナクラス域と、太平洋沿岸に分布する照葉樹林のヤブツバキクラス域の植生域に大別される。さらに両植生域間に中間温帯林の分布も確認されており、北方系フロラの南限域と南方系フロラの北限域が認められ、植物地理学上でも重要な位置付けがなされている。現在はいずれの植生域も自然林は少なくほとんどが代償植生または植林であり、これら二次林における林床低木層・草本層から潜在自然植生が推定される状況となっている。埋蔵文化財の発掘調査にともなう古環境の調査によれば、現植生と氷河期の植生との間には植物相に大きな開きがあり、後氷期の気候と植生変化が人類の生業に影響を与えてきたとが明らかとなった。

本文では、埋蔵文化財発掘調査に伴う古環境調査結果に基づいて阿武隈山地の古植生変化を追求してゆくことにする。古植生の変化は、花粉分析・植物珪酸体分析・植物遺体同定・炭化材樹種同定等の方法により調べるため、データは専門調査機関・専門研究者の調査・同定によりもたらされたものである。したがって本文はそれらの成果を引用してまとめたが、本文の目的は、現在までに得られた古植生調査の成果を改めて本誌に紹介し阿武隈山地の旧石器時代〜中世の古植生に関する基礎知識に役立てたいということと、発掘調査した遺跡周辺の古環境を調べる手がかりにするためであることをお断りしておく。引用は筆者が現在所属している(財)福島県文化振興事業団の遺跡調査部が発掘調査した資料を中心としている。なお、本文は平成19年9月29日におこなわれた福島県植物研究会といわき地域学会の合同研究会で発表した要旨に加筆修正したものである。発表をご快諾された福島県植物研究会会長の湯澤陽一先生に、日頃のご指導と併せて感謝申し上げる次第であります。

2.旧石器時代の古植生を復元する

 旧石器時代(氷河期)に属する発掘調査で古植生の分析を行った遺跡は、新地町三貫地遺跡と楢葉町大谷上の原遺跡である。この2遺跡の分析結果に加えて、三春町越田和遺跡・いわき市差塩湿原や仙台市富沢遺跡の調査成果、並びに故鈴木敬治・日比野紘一郎・竹内貞子・内山隆・香内修氏らの研究成果を引用しながら、阿武隈山地における氷河期の古植生変化の復元を行ってゆくことにする。

@ 新地町三貫地遺跡

国道113号バイパス遺跡調査事業により花粉分析と植物遺体同定を行った。三貫地遺跡調査区中央で3m程度グリッドを掘り下げたところ、植物遺体を含む泥炭質泥層が確認され、そこで採取された植物遺体を、当時福島大学教育学部地質学研究室におられた鈴木敬治氏に鑑定いただいた。約40,000年前の泥炭質泥層から出土した植物遺体は、ツガの毬果、アカマツの毬果、ヒメバラモミの毬果・鱗片、クルミの堅果、ハンノキの果、コブシの種子、ミツガシワの種子などであった。このことについて鈴木教授は、「相馬地方には現在分布しないヒメバラモミやツガなどの針葉樹が混じった植生で、現地点より400m〜500m以上の高度の植生に対応」「マツ科とスギ科の針葉樹を混じえる冷温帯の森林と沼湿地性の植生を反映していると考えられる。このような組成を有する化石群集は、 40,000年前頃の東北地方の中・南部域の地層からはよく知られている。」と述べられている。

さらに、三貫地遺跡の西端に設定したグリッドを掘り下げ、約2m下の泥炭質泥層から採取した泥土と、さきの調査区中央部グリッド泥炭質泥層から採取した泥土とあわせて花粉分析を行ったところ、遺跡の西端に設定したグリッドのサンプルでは、さきの調査区中央グリッド泥炭質泥層から採取した泥土と比較して、トウヒ属、マツ属が多いことが特徴的であり、分析した竹内貞子氏は、「スギ属やブナ属などの出現が見られないことや、トウヒ属、マツ属が多いことからみて、いくらか寒冷・乾燥化した気候条件の植生を暗示している」と述べられている。さらにこのことについて鈴木敬治教授は「遺跡西端部花粉化石群集は、中央グリッドの化石群集とはかなり組成上の特徴を異にする。中央グリッドの化石群集よりも後の時期のもので、より寒冷化した気候条件の植生を示している可能性がある」と述べられている。

A 楢葉町大谷上ノ原遺跡

常磐自動車道遺跡調査事業により、植物珪酸体(プラント・オパール)分析を行った。植物珪酸体は、植物の細胞内にガラスの主成分である珪酸(SiO2)が蓄積したもので、土壌中に半永久的に残る。節や属により珪酸体の形状が異なり、イネ科植物の推定に応用される。

遺跡の基本土層にしたがいサンプリングを行い、検出されたテフラ(降下火山灰)の位置を目安にしながら、検出されたイネ科タケ亜科の各節型や属型の検出量の変化を追った。

サンプリングと分析は株式会社古環境研究所に依託した。

分析の結果

イネ科 ススキ属型 ウシクサ属 シバ属

イネ科タケ亜科 メダケ節型 ネザサ節型 クマザサ属型 ミヤコザサ節型

の植物珪酸体が検出された。

基本層序と、層位ごとのタケ亜科の植物珪酸体比率を見た結果赤城鹿沼テフラAg−K(31万〜32万年前)、安達太良二本松1テフラAd−N1(3万年前)降下層準以下のZ〜[層ではクマザサ属(ミヤコザサ節型)を主体として、ネザサ節型も混ざる。Y層〜X層(姶良Tn火山灰AT(24万〜25万年前)が混ざる)ではクマザサ属・ミヤコザサ節型が主体、ネザサ節は見られない。Y層ではすべてミヤコザサ節型、X層でクマザサ属が少し現れる。W層(浅間板鼻黄色軽石As-YP(13万〜14万年前)が混ざる) 〜V層ではクマザサ属が増加しており、ミヤコザサ節型が減少している。メダケ属(メダケ節・ネザサ節)は温暖の指標、クマザサ属は寒冷の指標。クマザサ属でもチシマザサ節やチマキザサ節は積雪に対する適応性が高く、ミヤコザサ節は積雪の少ない乾燥した気候に適応。

大谷上ノ原遺跡における植物珪酸体(プラント・オパール)分析結果をまとめると、以下のようになる。

[層〜Z層期(3万年以上前)は比較的温暖(Y層〜X層期に較べて)でネザサ節が見られる。Y〜X層期(24万〜3万年前)は寒冷で乾燥な気候環境で、ミヤコザサ節が優占。W層(13万〜14万年前)〜V層期は積雪量が増加したことにより、クマザサ属が増加。V層期ではネザサ節・メダケ節が出現しており温暖化が認められる。

植物珪酸体分析で得られる結果は、当時の気候を知る上で非常に有効である。しかし、植生復元の面では、当時の草原や林床に繁茂するイネ科・タケ亜科植物の状況を復元するにとどまるので、植物珪酸体分析に加えて、植物化石や花粉分析などを行う必要がある。そこで、ここでは、大谷上ノ原遺跡の分析結果に三貫地遺跡の分析結果を加えて氷河期(更新世後期)の植生復元を試みたい。

B 大谷上ノ原遺跡と三貫地遺跡との比較

三貫地遺跡中央グリッドの植物化石を含む泥炭質泥層の時期は、検出花粉化石の中にスギ属が多く、ブナ属も含まれ、氷河期(更新世後期)としては比較的温暖であると推定され、ネザサ節が見られる3万年以上前の大谷上ノ原遺跡の[層〜Z層期にほぼ並行するのではないかと考えられる。鈴木敬治氏の、「三貫地遺跡中央グリッドの泥炭質泥層から出土した植物化石相は約40,000年前の植物相」という推定と、大谷上ノ原遺跡の[層〜Z層期の植物珪酸体相は赤城鹿沼テフラAg−Kや安達太良二本松1テフラAd−N1降下層準より下の層(3万年以上前)であるという事実は、整合性が高い。鈴木敬治氏は、三貫地遺跡中央グリッドの泥炭質泥層から出土した木材についての放射性炭素年代測定結果について、「21,420±400y.B.P(Gak-13136)で、層位から推定される年代とはかなりかけはなれた値を示している」とされ、泥炭質泥層から出土した植物化石群集について、その植生的特徴から40,000年±前頃と推定されたのであるが、それが、約10年後に行われた大谷上ノ原遺跡の植物珪酸体分析の結果と整合したことになり、現在より約20年前に、学習院大学での放射性炭素年代測定結果を退けてでも古植生相をベースにした年代観を示されたことは、まさに卓見と言えよう。

三貫地遺跡西端の泥炭質泥層の時期は、トウヒ属やマツ属の花粉化石が多く、スギ属やブナ属が見られないことから、鈴木敬治氏や竹内貞子氏により寒冷・乾燥した気候条件が推定されており、このことは、三貫地遺跡西端の泥炭質泥層の時期が大谷上ノ原遺跡のY層〜X層期にほぼ並行する可能性を示しているのではないか。

C 阿武隈山地における氷河期の植生の推定

4万年〜3万年前

モミ属やトウヒ属・ツガ属・マツ属・スギ属などの針葉樹が卓越するも、ブナ属やコナラ属・クルミ属などの落葉広葉樹が見られる冷温帯性の森林が推定されよう。トウヒ属には三貫地遺跡から出土したヒメバラモミが含まれる。カエデ属やヤマナシ・コブシの樹も見られる。大谷上ノ原遺跡の所見では、林床や草原にはミヤコザサ節のタケ亜科に加えネザサ節も出現している。

この時期の植物相としては、(鈴木・竹内1989)による東北地方中〜後期更新世における古植物相のLGU帯からLGTb亜帯にかけての植物相、差塩湿原Saiso−T帯からSaiso−U帯(高橋紀信1995)の植物相が相当するものと推定される。湿地にはミツガシワが繁茂する。スギ属やブナ属・コナラ属コナラ亜属花粉が比較的多く、三貫地遺跡の他にミツガシワの花粉も確認された例としてはいわき市差塩湿原のSaiso−T帯(高橋紀信1995)の例がある。Saiso−T帯は(鈴木・竹内1989)のLGU帯〜LGTb亜帯に相当する時期と考えられる。(鈴木・竹内1989)のLGU帯にはヒメバラモミ、LGTb亜帯にはミツガシワが認められる。(高橋紀1995によれば、会津盆地東縁の深沢層のKF−U帯でもSaiso−T帯と同様の植物相が確認されていることを指摘している。KF−U帯は木片の年代が測定されており、37,180±2,650y.B.P.測定されている。Saiso−T帯で確認された植物相の特徴とすれば、スギ属・ハンノキ属・コナラ亜属の高い出現率が挙げられよう。

この時期は最終氷期(ヴィルム氷期)でも温暖なゲトワイゲル間氷期(29,000年前〜44,000年前)にあたる時期かと考えられる。しかし、3万年前頃に比較的寒冷な時期が存在したことが、ツガ属・トウヒ属・マツ属単維管束亜属の増加とコナラ亜属・スギ属の減少、ブナ属の消滅が見られたSaiso−U帯(高橋紀信1995)の植物相から推定される。

3万年〜2万年前

最終氷期(ヴィルム氷期)最寒冷期の植生を推定させる。モミ属・トウヒ属やマツ属の針葉樹が卓越し、林床や草原にはミヤコザサ節のタケ亜科が繁茂する。この時期の植生を具体的に推定するには、宮城県仙台市富沢遺跡の約2.5万年前の層から検出されたトミザワトウヒなどをはじめとする植物相が参考になる。富沢遺跡では、エゾマツ・トミザワトウヒ(アカエゾマツの変種)・グイマツ・チョウセンゴヨウなどの亜寒帯針葉樹の植物遺体が出土している。トミザワトウヒについては、時期は下るが、後述する三春町越田和遺跡から産出している(香内修1996)。さらにこの時期の植物相としては、(鈴木・竹内1989)のLGTb亜帯からLGTa亜帯にかけての植物相、差塩湿原Saiso−V帯からSaiso−W帯(高橋紀信1995)の植物相が相当するものと推定される。(鈴木・竹内1989)のLGTa亜帯では植物相としてエゾマツ・ヒメバラモミ・シラビソ・チョウセンゴヨウ・コメツガ・カラマツなどの亜寒帯針葉樹が挙げられている。差塩湿原では、Saiso−V帯がカバノキ属の増加やコナラ亜属の出現などで、Saiso−U帯と比較して温暖化したことが推定される。Saiso−W帯の植物相は層の上位になるほどトウヒ属やマツ属単維管束亜属など寒冷性の針葉樹が増加し、同時にブナ属やコナラ亜属・カバノキ属・ハンノキ属などの広葉樹が減少しており、寒冷化・乾燥化が始まったことがうかがえる。Saiso−W帯の最上位に姶良火山灰(AT)の降下層が確認されている。AT降下後の約2万年前が最寒冷期と推定され、この頃に亜寒帯性の針葉樹の極相林が完成したと考えられる。ヴィルム最盛期とか、ヴィルム氷期第V亜氷期とか呼ばれる時期で、海水面は、現在より100m以上も下がった。

2万年〜1万年前

2万年前が最寒冷期ではあるが、その後次第に暖かくなり、積雪も増えてくる。林床や草原にはクマザサ属でも積雪に適応する節が増える。植物相としては、ツガ属・トウヒ属・マツ属単維管束亜属(キタゴヨウ・チョウセンゴヨウ等)が減少し、マツ属複維管束亜属(アカマツ等)・ブナ属・コナラ亜属・ハンノキ属などが増えて来る時期である(日比野紘一郎・竹内貞子1998他)。前述した差塩湿原では、AT降下層直上に花粉化石に乏しい層が50p程堆積しており、その間の花粉出現率の変化を追うことはできなかった。

この時期の資料として、三春町越田和遺跡から産出した植物遺体がある(香内修1996)。大滝根川支流蛇石川右岸に立地する同遺跡の更新世堆積層から出土した植物遺体について、当時福島県立博物館の香内修氏が同定し古植生を復元している。12,000年前(C14測定)頃と推定される越田和下部層の資料3・資料7にはモミの葉・トミザワトウヒの毬果・トウヒ属の葉と毬果・カラマツ属の葉・ウダイカンバとカバノキ属の種子が含まれ、11,680年前(C14測定)より新しい越田和上部層の資料5にはオニグルミの核・アカザ科とエビヅルの種子が含まれている。12,000年前頃の層から出土した資料3・資料7の植物遺体より推定される植物相は、阿武隈山地の亜寒帯針葉樹相にも仙台市富沢遺跡で産出されたトミザワトウヒが存在したことを示す貴重な資料と言えるだろう。さらに、亜寒帯針葉樹に加えて冷温帯のカバノキ科の落葉広葉樹が認められることから、亜寒帯性の針葉樹極相林の崩壊により生じた間隙にカバノキ科の先駆的植生が生長している様子を示していると考えられる。現代の亜高山帯でもオオシラビソの倒木によってできた間隙に陽樹のダケカンバが生長する様子はよく観察できるが、12,000年前頃は氷河期の終末期で、優占していた亜寒帯性針葉樹の更新よりも先駆的植生の生長が上回り、やがてはカバノキ科等の落葉広葉樹が優占し始めるようになった時期と言えるだろう。それより新しい越田和上部層の資料5では冷温帯から中間温帯林にかけて認められるオニグルミが認められることから、その頃にはブナ林やコナラ亜属林が広がり始めていたことが推定される。これらの所見は、阿武隈山地における氷河期最末期から後氷期にかけての植生変化の一端をうかがい知る貴重な例とすることができよう。

3.縄文時代の古植生を復元する

氷河期も終わり第四紀完新世となる。阿武隈山系における氷河期の植生は現在の植生とはかけ離れた様相で、現在の植生に至るには縄文時代以降の植生の変遷をたどることになる。

最終氷期最寒冷期(約2万年前)には亜寒帯性の針葉樹の極相林が存在した。後氷期(約1万年前)以降、温暖化が進み、亜寒帯性の針葉樹極相林は自然更新が困難になり、崩壊が進んだと思われる。極相林の崩壊により生じた間隙は温帯性の落葉広葉樹などの先駆的植生と入れ替わり、新たな森林遷移が始まった。おそらく、カバノキ林・ハンノキ林からコナラ亜属林・ブナ属林へと遷移した可能性が高い。新たな森林遷移にとって大きな影響を与えた気候変動は、縄文時代早期後葉から前期前葉にかけて(約6,000年前)の温暖化で、それにともない、海水面の高さが、現在より4mから5mも上昇したと推定されている。この温暖化により実際に森林が遷移した時期は、温暖化のピークのかなり後にずれこんだものと考えられる。関東地方では後氷期以降コナラ亜属林が卓越し、シイ属やアカガシ亜属の拡大は約4,000年前に確認されるようになる(内山隆1998)。すなわち、縄文時代中期末から後期初頭頃になって照葉樹林の拡大が認められるようになったということで、しかもコナラ亜属林の縮小は認められず、関東地方のヤブツバキクラス域に含まれる雑木林がかつて照葉樹林に覆われていた可能性(宮脇昭1997)は、古植生学的には証明されていない。東京湾や海岸沿いにはシイ林、やや内陸にアカガシ亜属林の広がりは認められたであろうが、コナラ亜属林も広がり、それらは丘陵地形とも関連して複雑に入り組んだ状況であったことが推定される。東北地方南部の太平洋岸に照葉樹の樹叢(マサキ−トベラ群集・イノデ−タブノキ群集・ヤブコウジ−スダジイ群集など)が拡大したのは、縄文時代中期以降の可能性が考えられる。それだけに、阿武隈山系では氷河期の亜寒帯性針葉樹林の崩壊以降におけるブナ属林やコナラ亜属林の形成過程が気になるところである。後氷期のコナラ亜属林の広がりについては前項で引用した差塩湿原のSaiso−X帯(高橋紀信1995)でクリ属やアカガシ亜属・圧倒的に多いスギ属・マツ属複維管束亜属(アカマツ等のニヨウマツ類)とともに確認されている。山地の上部ではブナ林・ミズナラ林、丘陵部ではクヌギ−コナラ林やクリ−コナラ林が広がり、尾根部にはアカマツ林、山地斜面部にはスギ林が見られるというような植生が推定されるのではないだろうか。

阿武隈山系では、数多くの縄文時代遺跡を発掘調査しているが、縄文時代の植生を具体的に復元するために有効な、植物遺体・花粉分析・種実同定・樹種同定の実施件数はまだまだ少ない。特に縄文時代早期・前期の分析件数が少なく、後氷期以降の森林遷移の様子を詳細にうかがうことが困難である。以下、縄文時代遺跡の発掘調査にともなって実施した分析例を紹介しながらできうる限り検討を進めることにする。

@ 小野町西田H遺跡

こまちダム遺跡発掘調査事業において、株式会社古環境研究所に依託して花粉分析を実施した。

Wb層:縄文時代早期前葉〜後半の遺物包含層

イネ科、ヨモギ属、タンポポ亜科の花粉わずかに検出された。遺跡の立地する丘陵帯はやや乾燥した草本群落の環境が推定される。

Wa層:縄文時代早期後葉〜前期前半の遺物包含層

スギ、クリ、モチノキ属、トチノキ、イネ科、カヤツリグサ科、オミナエシ科、タンポポ

亜科、キク亜科、ヨモギ属の花粉わずかに検出された。遺跡の立地する丘陵帯には草本群落が広がり、付近にクリ−コナラ亜属林やスギ林が形成され、やや乾燥した環境が推定される。さらに、近くにトチノキが好む谷沿いのような環境の存在が推定される。

V層:縄文時代早期〜前期前半の遺物包含層

樹木では、クリ、コナラ亜属、ケヤキ、モチノキ属、カエデ属、トチノキの花粉検出。草本ではイネ科、カヤツリグサ科、オミナエシ科、タンポポ亜科、キク亜科、ヨモギ属の花粉検出。トチノキの花粉が多く、カエデ属も認められることから、近くにトチノキが好む谷沿いのような環境の存在が推定される。さらに周辺にはコナラ亜属林が広がっていたことも考えられよう。

Wb層では草地であった環境が、V層ではクリ−コナラ亜属林の広がりが推定され、Wb層〜V層にかけての花粉ダイアグラムの変化は、1年生草本群落から多年生草本群落を経て陽樹林へと遷移するクレメンツ(Clements博士)の遷移説を彷彿させるものがある。                                      

A 飯舘村羽白D遺跡

真野ダム遺跡発掘調査事業によって所見が得られた。縄文時代前期後葉(大木4式期)の竪穴住居跡南西壁際の床面から多量の炭化クリ種実が集中して出土した。炭化クリは果皮および渋皮が取り除かれた状態で、土壌の水洗でも渋皮は確認できなかったと報告され、住居跡の外で処理がなされ食用に搬入したものであろうと推定される。炭化クリは約5.2リットルと計量された。多量の食用搬入種実の検出例として希な例であり、当時の植物食の状況をうかがう貴重な資料である。周辺にまとまったクリの種実が採取できるクリ−コナラ林が存在していたことが考えられよう。

B     富岡町上本町G遺跡

 常磐自動車道遺跡発掘調査事業において株式会社古環境研究所に依託して炭化材樹種同定を実施した。縄文時代前期前半〜前期後葉にかけての竪穴住居跡・土坑からは、マツ属複維管束亜属・クリ・コナラ節・カエデ属の炭化材が出土。量的には、クリ・コナラ節が多い。遺跡は富岡町の中位段丘面に立地し、周辺にコナラ亜属林、段丘斜面にはカエデを含む谷あい群落が存在していたことが推定される。

C 本宮市木遺跡 (阿武隈川右岸)

阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査事業においてパリノ・サーヴェイ株式会社に依託して炭化材・炭化種実同定を実施した。縄文時代中期後葉〜末葉の竪穴住居跡内からクリやヤマグワの炭化材、縄文時代後期初頭〜前葉の竪穴住居跡内からクリやコナラ節の炭化材が検出された。さらに、縄文時代中期後葉の土坑内から、オニグルミの炭化種実遺体が検出された。

D 楢葉町馬場前遺跡

 常磐自動車道遺跡発掘調査事業において株式会社古環境研究所に依託して炭化材樹種同定を実施した。縄文時代中期後葉の竪穴住居跡から出土した炭化材樹種の内訳は、クマシデ属イヌシデ節・クマシデ属・クリ・カヤ・コナラ属アカガシ亜属・ヤマグワで、クマシデ属イヌシデ節とクリ・カヤが多い。暖温帯のアカガシ亜属が認められることは注目される。コナラ亜属が認められないことをのぞけば、現植生にほぼ近い植生を反映しているものと考えられる。楢葉町では現在でも平野部にアカガシ林が認められ、河川沿いの段丘斜面にはクマシデやイヌシデが顕著である。クリは丘陵部に多く自生していたことであろうし、カヤは現在でもコナラ林やモミ林内に自生し、楢葉町の塩貝地区には天然記念物の大ガヤも存在している。

E 三春町仲平遺跡

三春ダム遺跡発掘調査事業において鈴木敬治福島大学名誉教授(当時)が植物遺体同定を実施した。縄文時代晩期の土坑からオニグルミの核果268個が出土。縄文時代晩期の自然流路からイヌガヤ種子3個、オニグルミ核果112個、ツノハシバミ堅果2個、トチノキさく果と種子228個、エゴノキ種子3個が出土した。オニグルミ核果とトチノキさく果と種子が顕著である。縄文時代晩期の土坑からオニグルミの核果が多量に出土したことは、食用に採取したためであろう。このことから、遺跡近くの旧滝根川渓畔林にはオニグルミ・トチが生い茂り、縄文時代晩期の人々がその実を採取していたことが推定される。ツノハシバミ堅果も食用可能なナッツ類で、河畔林のマント群落を構成する低木の一種である。

F 三春町四合内B遺跡

 三春ダム遺跡発掘調査事業において植物遺体同定を実施した。大滝根川支流蛇石川谷底沖積地で、二ケ岳降下軽石層(FP)の下位の、縄文時代中期から後期にかけて堆積した植物遺体を含む地層が確認され、3本のトレンチを設定して調査を行い、そこから出土した植物遺体について、鈴木敬治福島大学名誉教授(当時)に鑑定いただいた。それによると、イヌシデ、サワシバ、アサダ、イロハカエデ、イタヤカエデ、トチノキ、ミズキなどが多く、ブナ、イヌブナ、コナラなども確認されている。典型的な山地渓谷渓畔林の植物相を示している。コナラ、イヌシデ、サワシバ、イロハカエデ、ミズキなどは、調査当時の大滝根川や蛇石川の渓畔林に見ることができたが、イヌブナはごく稀で、ブナやトチノキは近辺には見られなかったという。これらの夏緑樹の化石群は、ブナやトチノキなどの冷温帯林(ブナ林)や、コナラ・ケヤキ・イヌシデなどの中間温帯林の樹種から構成され、鈴木敬治名誉教授は、「ブナやトチノキなどの化石が、かなり高い山地から搬入されてきたとは考えにくいので、当時の植生は、現在の阿武隈高地の400m〜500の高度の森林に比較できるものが、蛇石川の谷ぞいに分布していたと考えられる」と述べられている。さらに鈴木名誉教授は、四合内B遺跡の化石群集について、会津盆地の米田U層産化石群集(4,960±110y.B.P)や福島盆地の川原遺跡産化石群集(2,160±110y.B.P)と比較され、両化石群集がブナ・トチノキ・オニグルミ・コナラなどのほか温帯性落葉広葉樹を主とする点、四合内B遺跡の化石群集と同じ特徴を有することを指摘されている。

米田U層産化石群集の4,960±110y.B.PというC14年代は、縄文中期初頭を示す。川原遺跡産化石群集の2,160±110y.B.PというC14年代は弥生時代中頃を示し、川原遺跡から多量に出土した縄文時代後期後葉の加曽利B2式土器と比較すると新しすぎるので、川原遺跡産化石群集は出土遺物から縄文時代後期後葉に属するものと考えた方が良いだろう。

 いずれにせよ、縄文時代中期から後期にかけての阿武隈山系は、丘陵帯にコナラなどの中間温帯林が繁茂し、標高300m以上の山地帯にはブナ林・イヌブナ林が存在したことを示した所見であろう。

 なお、四合内遺跡出土の植物遺体で特筆すべき種に、カヤツリグサ科フトイ属のヒメカンガレイがある。福島県植物研究会員で水生植物に詳しい薄葉満氏によると、ヒメカンガレイは福島県では現生種としては確認されていないとのこと。同じフトイ属のカンガレイやタタラカンガレイは県内でも確認されている。ヒメカンガレイは後述する須賀川市一斗内遺跡でも出土しており、縄文時代には福島県内に分布していたが、同種は、旧石器時代では、宮城県富沢遺跡からも出土している。さらに時代は下るが、大越町(現田村市)栗出館跡の沖積地に堆積した古墳時代の層(産出層B、同層下部に榛名二ケ岳伊香保パミスFP堆積)と奈良〜平安時代の層(産出層C)からそれぞれ数十点と多量にヒメカンガレイの果実が出土していることを鈴木敬治氏は報告している(鈴木敬治1993年)。少なくとも平安時代頃までは福島県内でもヒメカンガレイが繁茂していたことがわかる。その後何らかの理由で、県内では絶滅したものであろう。

G 須賀川市一斗内遺跡

国営総合農地開発事業母畑地区において植物遺体同定を実施した。一斗内遺跡の旧小倉川河床に堆積していた泥土(縄文時代後期後葉)からは、多くの植物遺体が出土した。植物遺体は、福島大学鈴木敬治教授に鑑定いただいた。

その結果は、次の通りである。

D1グリッド礫層上の泥土から検出の植物遺体

ゼンマイ属   羽   片 (稀) ヒメカンガレイ 痩   果 (普通)

オニグルミ   堅   果 (多) イヌシデ    種   子 (多)

サワシバ    種   子 (稀) ブナ      果   実 (多)

トチ      果   実 (多) イタヤカエデ? そ う 果 (普通)

ホオノキ    種   子 (稀)

オニグルミ・トチの他に、ブナが多く出土している点が特徴的である。一斗内遺跡は、標高298m〜301mで、現在は周辺は二次林となっているが、縄文時代後期後葉頃は、旧小倉川上流域の山地帯にブナ林が広がっており、渓谷沿いにオニグルミ・トチ・イヌシデ・サワシバ・イタヤカエデなどが繁茂する渓畔林の存在が推定される。なお、三春町四合内B遺跡で述べたが、現在福島県内では絶滅したと考えられるヒメカンガレイの植物遺体が出土している。

H 玉川村江平遺跡 (阿武隈川右岸)

福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査事業においてパリノ・サーヴェイ株式会社に依託して各分析を実施した。縄文時代晩期の77号土坑内堆積土について、花粉分析・植物珪酸体分析・種実同定を行った。花粉分析の結果は、広葉樹ではコナラ属コナラ亜属、クリ属−シイノキ属、ニレ属−ケヤキ属、トチノキ属、ブナ属、クルミ属などが比較的多く検出され、なかでもコナラ属コナラ亜属が非常に突出して多い。針葉樹では、モミ属、マツ属が多いが、ツガ属やトウヒ属が確認されたことが興味深い。これは他県でも確認されている。縄文時代晩期は現在より−1℃程度寒冷化したとされているが、そのことを示す植物層ではないかと考えられる。

遺跡の周辺には、コナラ林が広がり、阿武隈川支流の河川沿いにはクルミ、クマシデ、アサダ、トチノキが繁茂、阿武隈川河畔の湿地にはハンノキなどが見られたことであろう。

江平遺跡の花粉分析結果から見ると、縄文時代晩期には、阿武隈山麓から河岸段丘面にかけての丘陵帯にはコナラ林が広がっていたことが推定される。さらに、モミ属・ツガ属の花粉が出現していることから、中間温帯林を標徴する樹種としてのモミやツガがコナラ林に混生していた可能性もある。ブナについては、三春町四合内B遺跡や須賀川市一斗内遺跡からも植物遺体として多く出土しており、江平遺跡例を含めて考え合わせると、縄文時代中期から晩期にかけての阿武隈山系の山地帯には、ブナ林が拡大したことが推定される。

I 福島市宮畑遺跡

福島市教育委員会が遺跡の確認調査を行い、古代の森研究舎の吉川昌伸氏・吉川純子氏に依託して花粉分析と植物化石同定を実施した。遺跡は阿武隈川右岸に立地、阿武隈山地の西縁に位置しており、縄文時代前期から晩期にかけての複合遺跡で、国指定史跡となっている。花粉は縄文時代早期・中期・後期中葉の各時期において分析が可能であった。A区東壁と西壁では補正14年代で8,780±80年前〜4,230±40年前の間の層で主要花粉の変遷が確認された。これは縄文時代早期初頭から中期後葉にかけての花粉の変遷で重要な所見である。縄文時代早期では最下層のDf層からCd層までコナラ亜属が圧倒的に多く、クマシデ属−アサダ属がそれに次ぐ。ブナ属・ハンノキ属・カエデ属・ウルシ属も若干認められる。縄文時代早期においてコナラ亜属の顕著な花粉出現率が確認されたことは、同時期において、遺跡周辺の丘陵帯ではコナラ亜属の優占林が広がっていたことを示すものであろう。なおブナ属の出現は、遺跡東側の阿武隈山系における山地帯にブナ林が存在し、そこから花粉が飛来したことをうかがわせる。さらにアカガシ亜属がわずかながら出現していることは、局所的にシラカシの林分が存在していたのであろうか。さらに縄文時代中期では、コナラ亜属の出現率は半減するが、やはり比率的には最も高い。クルミ属・ブナ属・クリ属・ニレ属−ケヤキ属・エノキ属−ムクノキ属・キハダ属・トチノキ属の出現率が高まる。クリ属の出現率の増加は顕著でDb5層とDb3層で特に顕著である。キハダ属はDb6層とDb3層で特に多い。クマシデ属−アサダ属・ハンノキ属・カエデ属も少ないながら出現している。この頃の遺跡周辺の丘陵帯にはクリ−コナラ林が広がり、阿武隈川沿いにはクルミ・トチノキ・ケヤキ・エノキ・キハダ・クマシデ・カエデなどの河畔林が広がっていたこと、遺跡東側の山地帯においてブナ林が拡大したことが推定される。アカガシ亜属もわずかながら出現しており、局所的にシラカシ林分の存在が推定される。クルミ属・クリ属・トチノキ属など、可食堅果類が増加したことが特徴的である。報告者は「縄文時代中期頃には住居跡の周囲にクリ林を、河畔にオニグルミ林を配置して人為的な生態系をつくり植物食を確保していた可能性」を推定しているが、実証は今後の課題であろう。

調査区北部の24トレンチ検出の6号河川跡内木組み遺構板材で3,540±40年前、オニグルミ内果皮で3,420±60年前の補正14年代が測定されており、6号河川跡が縄文時代後期に属することが確認され、その6号河川跡の断面を含む24トレンチ西壁で花粉分析と植物化石同定が実施された。さらに縄文時代後期の古植生・生業を調査するために7号河川跡でも花粉分析と植物化石同定が実施された。花粉分析の結果ではコナラ亜属が最も多く、クリ属・トチノキ属がそれに次ぐ。クルミ属・クマシデ属−アサダ属・ハンノキ属・ブナ属・ニレ属−ケヤキ属・エノキ属−ムクノキ属カエデ属も縄文時代中期と同様に出現している。全体的に見ると、コナラ亜属以外にクリ属・トチノキ属の多さが顕著である。針葉樹ではイチイ科−ヒノキ科−イヌガヤ科が増えている。出現植物化石では、クリが最も多く、カヤがそれに次ぎ、以下ケヤキの順になる。縄文時代後期における遺跡周辺の植生は、基本的に縄文時代中期の植生の継続と推定されるが、クリ属・トチノキ属の出現率の増加が特筆される。報告者は「宮畑遺跡においてもトチノキ林が人為によりもたらされた可能性があり…」と推定している。花粉分析でアカガシ亜属もわずかながら出現しており、局所的にシラカシ林分の存在が推定されることは、縄文時代中期と同じである。現在、福島市の信夫山に局所的なシラカシ林分が存在するが、それは、縄文時代以降、細々と更新されてきたシラカシ林分の名残であろうか。24トレンチ並びに7号河川跡の花粉分析結果からは、縄文時代後期における旧河畔周辺の草本層・低木層〜高木層からなる多層群落の様相が具体的に復元される。頁数の関係で逐一列挙できないが、詳細は報告書を参照されたい。

J 南相馬市割田地区遺跡群

 原町火力発電所関連遺跡調査事業において、株式会社パレオ・ラボに依託して南相馬市割田地区でボーリング調査による土壌分析を行った。そのなかで花粉分析の結果、縄文時代前期から縄文時代中期、後・晩期、古代、中世にかけての花粉出現率の変化を追うことができた。14年代測定で5,270±60年前と測定された花粉帯T期は縄文時代前期頃と推定され、コナラ亜属・クリ属が顕著に高い出現率を示し、最も古い段階でクリ属は最高の出現率となっている。クマシデ属−アサダ属・マツ属複維管束亜属がそれに次ぎ、以下、ブナ属・モチノキ属・トチノキ属・ハンノキ属・カバノキ属・ニレ属−ケヤキ属・モミ属・ツガ属・アカガシ亜属・シイノキ属−マテバシイ属の出現が認められる。アカガシ亜属・シイノキ属−マテバシイ属はわずかな出現率ながら、局所的に照葉樹であるアカガシ・ウラジロガシ・スダジイ等の林分が存在した可能性が考えられる。このことは、縄文時代前期に太平洋岸沿いに細々とヤブツバキクラス域の植生が出現したことを示すものであろうか。しかし当時の割田地区の丘陵帯ではクリ−コナラ林が優占的に広がっていたものと推定される。

花粉帯U期はC14年代測定で4,840±50年前と測定され、縄文時代中期前半頃と推定される。クリ属の出現率が激減し、ブナ属が急増しており、コナラ亜属の出現率を上回る。クマシデ属−アサダ属・ハンノキ属・ニレ属−ケヤキ属も増えている。コナラ亜属の出現率はT期と変化ない。アカガシ亜属・シイノキ属−マテバシイ属も同様である。ハンノキ属の増加は、開析谷における湿地の安定化にともないハンノキの繁茂が生じたものと推定されている。ブナ属は阿武隈山系の山地帯下部まで拡大した結果、割田地区まで花粉が飛来したものであろうか。現在でも、南相馬市の新田川や太田川上流の渓谷にはモミ−イヌブナ林、さらに五台山・国見山(標高563m)・高倉山にはブナ−イヌブナ林が残っている。縄文時代中期のブナ林拡大時には、これらの山の山麓近くまで広がった可能性も考えられる。

花粉帯V期は縄文時代中期後半〜後期と推定される。クマシデ属−アサダ属・ブナ属の出現率が激減、コナラ亜属・クリ属が微増、トチノキ属が急増している。開析谷に沿ってトチノキが生長したことによるものであろうか。アカガシ亜属・シイノキ属−マテバシイ属の出現率はあいかわらず低いがU期と同様である。

 花粉帯W期は縄文時代後期〜晩期と推定される。トチノキ属の出現率が激減、ニレ属−ケヤキ属が急増、クマシデ属−アサダ属・ブナ属が再び増加に転じている他、ハンノキ属も増えている。クリ属は再び減少している。コナラ亜属は安定して高い出現率となっている。アカガシ亜属・シイノキ属−マテバシイ属の出現率は低いがV期と同様である。

 以上の所見から、南相馬市割田地区では、縄文時代前期以降晩期にいたるまでコナラ亜属の出現率が安定して高く、クリ属・ブナ属・トチノキ属は激しく変化し、クリ属は前期に最も高く後に激減、ブナ属は中期に最も高く後期に激減した後、晩期に再び増加、トチノキ属は中期〜後期に激増するも、その後再び激減するという変化が確認された。

K 阿武隈山地における縄文時代の古植生の変化

 少ないながらも、縄文時代早期から晩期にかけての古植生データがそろい始めたというのが現状である。早期から晩期にかけて一貫して高い出現率となるのはコナラ亜属である。福島市宮畑遺跡の縄文時代早期層ではコナラ亜属が圧倒的に高い出現率となっている。縄文時代前期の南相馬市割田遺跡群花粉帯T期やいわき市差塩湿原のSaiso−X帯(高橋紀信1995)でもコナラ亜属やクリ属が高い出現率となっている。小野町西田H遺跡V層でもコナラ亜属やクリ属が多く出現している。縄文時代前期の特徴はクリ属の高い出現率と言えよう。ここにクリ−コナラ林の拡大が推定される。縄文時代中期になるとクルミ属やブナ属・トチノキ属の出現率の高まりが認められる。縄文時代後期・晩期では多少の変異はあるもののクルミ属・ブナ属・トチノキ属が決して低くない出現率を維持し、植物遺体でもクルミ(オニグルミ)・ブナ・トチノキなどが多く出土している。

 縄文時代の阿武隈山地では、小幅な気候変動はあったものの、丘陵帯にはコナラ亜属林が、山地帯にはブナ林、渓谷にはオニグルミ・トチノキ・ケヤキ・アカシデ・クマシデ・カエデ属、湿地にはハンノキという植生で安定したものと推定される。安定した時期は、それらの属や種が出揃う縄文時代中期頃と推定されよう。スダジイやアカガシに代表される照葉樹の林分は、おそらく縄文時代前期頃に出現したが、海岸地帯から丘陵帯にかけて顕著に拡大した痕跡は認められない。またブナ林は山地帯が中心で、丘陵帯においてコナラ亜属林を凌駕してまで優占した痕跡は認められない。現在山地帯のミズナラを中心とした代償植生林には、かつてブナ林が広がっていた可能性が考えられる。したがって、縄文時代において、現在の植生区分であるブナクラス域とヤブツバキクラス域が各クラス域の極相林に二分して覆われていた痕跡は認められなかった。

現在の森林遷移説ではいつかブナ林や照葉樹林(スダジイ林やタブノキ林)などの極相林に遷移するはずの途中相林(コナラ亜属林)が、丘陵帯を中心として縄文時代という長い期間安定して更新し続けたという点に注目すべきであろう。そして、コナラ亜属林を軸として出現したクリ属やクルミ属・トチ属との混在によりもたらされた自然生産力が、ブナ林とシイ・カシ林と和して縄文文化の経済的基盤となったことを評価しなければならない。

 極相林とは、森林遷移の最終段階で最も安定して自然更新できる植生で、最終的には陽樹から陰樹に遷移するとされているが、関東地方の調査結果(内山隆1998)と、今回の阿武隈山地の調査結果からしても、陽樹であるコナラ亜属林が安定して自然更新してきた経緯からすれば、縄文時代早期以降、陽樹から陰樹に遷移した自然条件域と、何らかの理由で陽樹のまま長い期間自然更新が維持されてきた自然条件域が存在したことが推定される。前者は縄文時代に冷温帯林のブナ林が拡大した阿武隈山地の山地帯と暖温帯林の照葉樹林が形成された海岸地帯で、後者は阿武隈山麓の東西に広がる丘陵帯であろう。この丘陵帯に広がるいわゆる中間温帯林の研究が、古植生学的にも考古学的にも今後の課題と思われるがいかがであろうか。

現在は阿武隈山地東縁の丘陵帯にシキミ−モミ群集、丘陵帯上部から山地帯中部にモミ−イヌブナ群集が認められ、それぞれにモミを軸とした気候的極相林とされている。前者はアカガシ・ウラジロガシが標徴種で所々シキミが観察され、林床にミヤマシキミが認められる。後者はイヌブナやミズナラが標徴種に含まれる。県道35号線や国道号線を北上すると丘陵帯にモミを多く目にすることができ、木戸川渓谷や高瀬川渓谷・橲原渓谷・新田川渓谷などでは夏緑樹林にモミが点在する様子も観察できる。さらに山地帯下部から丘陵帯上部の渓畔林の林床にはミヤマシキミやシキミが所々観察できる。シキミ−モミ群集の範囲とモミ−イヌブナ群集の範囲は山地帯下部から丘陵帯上部で入り組んでいるのであろう。阿武隈山地東縁の丘陵帯でモミ属の花粉が多く出現するようになるのは南相馬市割田遺跡群においては花粉帯X期(古墳時代前半期の頃)で、Y期には減少する。また、相馬市山田B遺跡では、古墳時代以降の層とされているLTd層から採取した試料番号2の花粉分析の結果、モミ属の花粉が卓越し、ブナ属の花粉も多く出現していることが確認された。花粉分析を行ったパリノ・サーヴェイ株式会社により付近にモミ属が優占する林があったことが推定されている。山田B遺跡は丘陵帯と山地帯の境付近に位置し、ブナ属の花粉が多く出現していることから、遺跡近くの地蔵川支流の渓谷にはモミ−イヌブナ林の存在も考えられよう。以上のことから、現在のようなシキミ−モミ群集やモミ−イヌブナ群集が出現するのは、花粉分析の結果から判断しておそらく古墳時代以降と推定されよう。しかし、縄文時代にもモミの花粉は僅かながら出現しており、丘陵帯のコナラ亜属林にモミが点在的に混生していた可能性はある。

 内山隆によれば低地・丘陵部における中間温帯林の成立・拡大は、約4,000年前に始まったとされているが(内山隆1998)、阿武隈山地における縄文時代中期以降の中間温帯林域の植生変化も今後の重要な課題として残されている。

今回は先学が行われた花粉分析と植物遺体同定の成果を引用させていただいた上での、ごく粗い私見であるが、浅学を顧みず、上記の問題を提起させていただくことにする。阿武隈山地における縄文時代の古植生については、さらにデータの積み重ねが必要であり、埋蔵文化財発掘調査にともない積極的な分析がなされることを期待する。

4.古代・中世の古植生を復元する

縄文時代が終わり、弥生時代が過ぎて、古墳時代、奈良・平安時代頃になると阿武隈山地にも人の手がかなり加わり、奈良・平安時代以降は製鉄などによって木材の大量伐採がなされるようになった。

 奈良・平安時代の製鉄遺跡については、新地町・相馬市にまたがる武井地区製鉄遺跡群や、南相馬市の金沢地区製鉄遺跡群が有名であるが、ここで取り上げるには、資料が膨大に過ぎ、別途機会を得て取り上げたいと思う。

 なお、古墳時代から平安時代にかけての植生については、福島県植物研究会会長の湯澤陽一先生が、『原町市史第8巻「自然」』にて南相馬市(旧原町市)大船迫A遺跡やいわき市白水阿弥陀堂境内発掘調査にともなう花粉分析結果や、南相馬市(旧原町市)鳥打沢A遺跡・鳥居沢B遺跡・大船迫A遺跡の炭化材樹種同定結果、いわき市荒田目条里制遺構・砂畑遺跡のプラント・オパール分析結果と花粉分析結果などをもとにして詳細な復元研究をなされており、ご参照願いたい。

 今回は相馬市割田地区遺跡群・浪江町太刀洗遺跡・大熊町上平遺跡・須賀川市銭神製鉄遺跡群の調査所見を紹介してゆくことにする。

@     南相馬市割田地区遺跡群

 縄文時代の古植生復元でも取り上げた、株式会社パレオ・ラボに依託して行った南相馬市割田地区で行ったボーリング調査による花粉分析結果の続きで、花粉帯X期は榛名−二ツ岳伊香保テフラ(Hr−FP)降下層下の層順に位置し、古墳時代前半期の頃と推定される。コナラ亜属の出現率が最も高く、クマシデ属−アサダ属・ハンノキ属・ブナ属・ニレ属−ケヤキ属も比較的多いのはW期(縄文時代後期〜晩期)とほぼ同じであるが、モミ属やカエデ属が増加している。モミ属の増加は、イヌブナの花粉が僅かに増えていることとも相俟ってモミ−イヌブナ群集が形成され始めたことを意味しているのであろうか。さらに花粉帯X期の最も新しい時期(FP直下)で、マツ属複維管束亜属と草本類のイネ科花粉の出現率が増している。特に、イネ科は急激な増加である。反対にコナラ亜属・クマシデ属−アサダ属・ハンノキ属・ブナ属が減少している。イネ科の急増は、抽水植物のサジオモダカ属・オモダカ属・ミズアオイ属の出現をともない、この頃に水田が広く開発され、稲作が行われるようになったことを意味しているのではないかと考えられる。サジオモダカ属・オモダカ属・ミズアオイ属は水田雑草で、水田が広く開発されたことにともない出現したものであろうと報告者は指摘している。また上記夏緑樹の減少とマツ属複維管束亜属の増加は相関関係にあり、コナラやクマシデなどの伐採にともない、代償植生としてアカマツ(報告者はニヨウマツと表現)が増加したことによるものではないかと考えられる。アカマツは森林伐採後に先駆的に生えることが知られている。この花粉帯X期で人為による植生変化が顕著に現れてきた。続く花粉帯Y期ではコナラ亜属・ブナ属・クマシデ属−アサダ属・カエデ属が急激に減少し、マツ属複維管束亜属とスギ属が急増している。さらにイネ属も増えている。Y期は榛名−二ツ岳伊香保テフラ(Hr−FP)降下層より上位で、古代〜中世と推定され、夏緑樹の激減は、製鉄にともなう伐採等の人為的影響と考えられる。マツ属複維管束亜属のさらなる増加は、コナラ林等の伐採により代償植生林が広がったことを意味しているものと考えられる。スギの急増は、植林による可能性もある。

 割田地区で発掘調査された平安時代の製鉄遺跡群からは、製鉄炉・木炭窯・簡易木炭焼成土坑などからまとまった炭化材資料が得られた。それらについて株式会社パレオ・ラボ、ならびにパリノ・サーヴェイ株式会社に依託して同定を行った結果、カヤ・モミ属・マツ属複維管束亜属・イヌシデ節・カバノキ属・ブナ属・コナラ属コナラ亜属コナラ節・コナラ属コナラ亜属クヌギ節・クリ・バラ科ナシ亜科・サクラ属・キハダ・フジ属・カラスザンショウ・ヌルデ・カエデ属・アワブキ属・ハリギリ・ミズキ属・クマノミズキ類・エゴノキ属・トネリコ属が確認された。コナラ亜属林のほとんどの高木〜亜高木種を用いていたことがうかがえる。しかしそれらの中で多用されていたのは、コナラ節・クヌギ節・クリ・イヌシデ節で、木炭窯や製鉄炉出土炭化材ではコナラ節・クヌギ節・イヌシデ節が多く、特にコナラ節は圧倒的に多い。逆に簡易木炭焼成土坑ではクリが圧倒的に多い。コナラ・クヌギの木炭は硬く火持ちが良いが、クリ炭は高火力は得られるものの、火持ちは良くない。報告書ではクリ炭は鍛冶用の木炭と推定している。それにしても、製鉄や鍛冶のためにかなり多量の木炭を焼成するには、広範囲で伐採がなされたものであろう。南相馬市の古代製鉄遺跡群はここだけでなく、金沢地区にも鳥打沢や鳥井沢・大船迫など多くの製鉄遺跡群がある。そこでの製鉄操業をまかなうために用いられた木炭を焼成するための伐採によって、奈良〜平安時代において南相馬市の丘陵帯から山地帯下部にかけては自然林がほぼ消失したことが推定される。コナラは伐採後も萌芽更新によって生長するので、伐採→更新→伐採を繰り返していた可能性がある。その間に代償植生としてのアカマツ林も広がったことであろう。

A     浪江町太刀洗遺跡

 常磐自動車道遺跡発掘調査事業において、古代の森研究舎の吉川純子氏に依託して平安時代の木炭窯から出土した炭化材の樹種同定を実施した。太刀洗遺跡資料は、1基の木炭窯に窯詰めされたままの木炭928本について同定を行い、まとまった資料となっている。木炭の8割はイヌシデ節で、次いでカエデ属・コナラ節が多く、他はカツラ・アカガシ亜属・スギ・ケヤキ・コクサギ・ウルシ・ブドウ属がわずかずつ確認されている。1基の木炭窯焼成炭でイヌシデ節がこれほど高い割合で出現した例はない。報告者は、周辺にイヌシデ節を中心とした夏緑樹の林分を想定している。遺跡は中位段丘北側に浸食された谷間に立地し、谷から尾根筋にかけてイヌシデ節・カエデ属・コナラ節・カツラ・アカガシ亜属・ケヤキからなる林分が広がっていたと考えられる。ただ、木炭材の年輪計測によれば、いずれも20年前後で、報告者はそこから周囲の林齢を20年前後と推定しており、若い林分であると考えている。ただこの推測は林分を皆伐という前提であり、択伐の場合は古齢木と若齢木が入り交じっていたであろう。しかしこのことは、林分自体が二次林で、過去に伐採利用が繰り返されてきた経歴を物語っている。そして、伐採の間隔は、萌芽更新後約20年程度と推定される。製鉄にともなう木炭窯操業のたびに場所を変えて伐採を行ったことから、平安時代において浪江町の丘陵帯からは自然林の多くが二次林化した可能性が考えられる。

 相馬郡新地町から相馬市・南相馬市・浪江町にかけての阿武隈山地東縁は、古代から近世にかけて製鉄が盛んに行われた。製鉄にともなう木炭材の伐採によって、古代以降、丘陵帯から山地帯にかけては森林面積の大半が二次林化したことであろう。伐採後は、ほとんどが萌芽更新により再生し、新たな伐採を繰り返していたものと推定される。森林材は製鉄のみならず、日常生活用の薪炭材や家屋建築材にも利用されたことであろう。

B 大熊町上平A遺跡

常磐自動車道遺跡調査事業において、株式会社古環境研究所に依託して炭化材樹種同定を実施した。

平安時代の製鉄炉跡から出土した炭化材(木炭)の樹種が、すべて、コナラ属アカガシ亜属であることが確認されている。アカガシ亜属は、イチイガシ、アカガシ、シラカシなどの種があり、照葉樹林の主な構成樹となっている。大熊町の上平A遺跡は、国道6号線より西側で、阿武隈山麓に比較的近く位置するが、付近の屋敷林では、現在でもウラジロガシやアカガシを見ることができる。したがって、平安時代は、大熊町の阿武隈山麓近くまでシキミ−モミ群集林が広がっており、上平A遺跡付近にはアカガシやウラジロガシなどのアカガシ亜属が繁茂していた可能性が考えられよう。

C 須賀川市銭神製鉄遺跡群

広域農業開発事業阿武隈地区遺跡分布調査事業において炭化材樹種同定を実施した。

中世の製鉄遺跡群と推定される須賀川市銭神製鉄遺跡群から出土した炭化材について嶋倉巳三郎氏に依託して樹種同定を行った結果は、以下のとおりである。

シデ類2 カバノキ類2 アサダ2 ブナ8 コナラ12 フサザクラ4 ホオノキ1 

ノリウツギ2 サクラ類4 カマツカ4 ナナカマド1 カエデ類4 ハクウンボク1

すべて夏緑樹である。コナラ・ブナ・サクラ・カエデなどからなる木炭は硬炭で、コナラは最良の炭となる。その他の雑木炭も優秀な炭となる。アカマツなどの針葉樹炭は検出されていないが、製鉄炉燃焼の初期に炉内温度を高めるためにはマツ炭は欠かせないもので、実際には用いられていたであろう。おそらく、サンプリングされなかっただけかもしれない。銭神G遺跡・銭神H遺跡から出土した炭化材の樹種同定にもとづいて当時の銭神地区から蓬田岳(標高952m)にかけての植生を復元すると次のようになる。渓畔はノリウツギ・カマツカのような低木に、フサザクラのような亜高木、さらにホオやトチ・サワグルミ・カエデ属のような高木が繁茂。山腹から山麓にかけては広くコナラ林が優占し、クヌギ・クリ・オオヤマザクラが混ざり、山麓にはカエデ・カバノキ科のクマシデ・アカシデなども繁茂していた可能性が高い。コナラ優占林は、木炭材伐採後萌芽更新がなされていたと推定される。山腹上位から山頂にかけてはブナが優占していた可能性が高い。製鉄操業には、多量の木炭を必要とする。1回の操業で、最低でも500sから600sの木炭を消費する。その木炭を生産するためには、約3〜4反歩の広さの林を必要としたと言われる。だからこそ、銭神地区のように、周囲に木炭の材となるコナラ林が豊かに広がる地区で製鉄が行われたのであろう。

D 阿武隈山地における古代・中世の古植生の変化

阿武隈山地における古代以降の古植生の変化は、丘陵帯においては、奈良・平安時代以降コナラ亜属の花粉出現率の減少とマツ属複維管束亜属やスギ属の花粉出現率の増加、そしてイネ科花粉出現率の増加に見られるように、人為の影響を大きく反映した変化となっている。基本的には、山地帯にブナ林、丘陵帯にはコナラ亜属林、海岸地帯には照葉樹林という環境をベースとしていたものであろうが、水田開発や建築材・薪炭材確保のための伐採により、自然林は加速度的に人為が加わり、奈良・平安時代には、集落遺跡や官衙・寺院跡・製鉄関連遺跡周辺はほとんど代償植生化したと考えられる。浪江町太刀洗遺跡の木炭分析結果からも、周辺の丘陵帯の林齢が若く萌芽更新による二次林化していることがうかがえる。製鉄遺跡は、奈良時代〜平安時代前半期には海岸近くの丘陵帯、平安時代後半期には山地帯近くの丘陵帯、中世には山地帯と、操業場所が内陸に移動している。このことは、時代が下るごとに代償植生化が山地帯へと広がっていることを示すものであろう。その結果、マツ属複維管束亜属(アカマツなどのニヨウマツ類)の増加をまねいたものと推定される。スギ属の増加は、植林の影響も考えられるが、歴史的に植林がいつ頃から活発になされるようになったのかは不明である。前項で述べたように、阿武隈山地東縁におけるモミ−イヌブナ群集とシキミ−モミ群集の形成が古墳時代以降であることが、南相馬市割田遺跡群や相馬市山田B遺跡群の花粉分析の結果から推定されるが、モミ属の増加要因のひとつには、古代以降のコナラ亜属林の広範囲な伐採も挙げられるのではないかと考えられる。現在に残るモミ優占林の多くがそうであるとは言えないが、一例として、楢葉町の山地帯においてモミ優占林の中に近世の製鉄遺跡と推定される規模の大きな廃滓場が確認されている。このようなことからも、人為的要因によるモミ属の増加の可能性は高いと考えられる。近世になると、川内村や葛尾村、平田村、玉川村の四辻新田地区など阿武隈山地の中央部においても盛んに製鉄が行われ、山間部の新田開発も進められ、山地帯の多くが代償植生化したであろう。山地帯で現在ミズナラの二次林となっている箇所は、かつてのブナ林ではなかったかと推定される。

5.終わりに

  阿武隈山系では、発掘調査により約40,000年前以降の古植生を推定しうるデータを入手することができた。しかし、縄文時代のデータがまだまだ不足している。今後の調査に期待するしかないだろう。今回の発表内容をまとめるにあたり、諸々の事情から関連文献すべてに目を通すことが不可能であった。したがって、資料は、福島市宮畑遺跡をのぞいて(財)福島県文化振興事業団遺跡調査部遺跡調査グループ(旧(財)福島県文化センター遺跡調査課)が過去に行ってきた阿武隈山系の埋蔵文化財発掘調査報告書を用いた。今後新たな分析資料が増えて、内容も充実してくることを期待したい。さらに今回の作業を通して気づいたことは、現在(財)福島県文化振興事業団遺跡調査部遺跡調査グループの渡利分室に保管されている各遺跡から出土した木材や炭化材・植物遺体などは、古植生の復元・検討に有用な、貴重な標本ということである。標本は自然史関連諸科学の重要なバックデータであり、今後も継続して保管され、後世の研究と教育普及に寄与されんことを願うものである。

  今回の作業にあたっては、福島県植物研究会の湯澤陽一・薄葉満・山田恒人各先生、文献借用の協力を得たいわき市考古資料館の樫村友延館長、(財)福島県文化振興事業団遺跡調査部の皆様をはじめとして、多くの人々のご示教・ご協力を得た。あらためて感謝申し上げたい。

  最後であるが、本文を故寺島文隆氏に献呈申し上げたい。故寺島氏には(財)福島県文化振興事業団遺跡調査課時代に阿武隈中部の遺跡分布調査や常磐自動車道遺跡発掘調査で数々のご指導を賜った。平成15年の秋に常磐自動車道遺跡発掘調査の現地協議で幾度も浪江町太刀洗遺跡に赴き、調査を担当していた福島雅儀氏とともに木炭窯のことを話したり、周辺の自然や阿武隈の山並みに話がはずんだことを思い出す。平成13年以来、筆者の植物のしつこい話をいやがりもせずに耳を傾けて頂いたことを思うと冷や汗ものである。今は故郷の鹿狼山の頂上から我々の姿をご覧になっておられるのであろうか。心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。

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