官報に読む明治三陸大津波について

友の会講座

平成23年9月24日 山内幹夫

官報に読む明治三陸大津波

1.官報とは

国の機関誌である。国としての作用に関わる事柄の広報および公告をその使命とする。 明治16年(1883年)72日に参議・山縣有朋の建議により初めて発行され、当初、編集・発行業務は太政官文書局で行っていたが、その後内閣官報局、内閣印刷局、大蔵省印刷局、財務省印刷局を経て、平成15年(2003年)4月以降は独立行政法人国立印刷局が行っている。

今年は公文書管理法が施行され、東日本大震災が発生した年。官報に未曾有の自然災害である明治29年6月15日に発生した明治三陸大津波についてどのように記載されているのかを調べて、官報が歴史的公文書であることを再確認するとともに、過去の大津波被災史を確認することにより、防災意識の向上に寄与できればと願うものである。

2.明治三陸大津波について

 明治29年の旧暦の端午の節句の日(6月15日)三陸地方を「歴史上第一級」とさえ言われる大津波が襲った。明治の頃は「地震が起きたら津波に備える」という発想をする人は少なく、ましてこの時は地震がさほど強くなかったため、津波が間近に来るまで気づかず多くの命が奪われた。地震の震源地は岩手県沖で最大震度は4、激しい地震でもなく、地震の直接的被害がほとんど認められなかったゆえに避難が遅れて2万人を超す犠牲者が出てしまった。これは、この地震が巨大な力(マグニチュード8.2- 8.5)を持ちながら、ゆっくりと動く地震であったためである。

3.官報に掲載された明治三陸大津波の記事

 明治29年6月の官報では、津波のことを海嘯(かいしょう)と記載している海嘯の嘯とは嘯(うそぶ)くと言う意味。東日本大震災復興構想会議委員で三春町福聚寺住職、芥川賞作家玄侑宗久氏の話によれば、「今回の東日本大震災の大津波は『津波』という表現は不適切で『海嘯』という表現がよろしいのではないか」とのこと。理由としては「波」の場合、波頭と波底の繰り返しで押し寄せて来るが、今回の大津波は海水面が何メートルも高い状態が数十qも続き、波という表現には当たらない。昔は津波のことを海が嘯(うそぶ)くと書いて海嘯(かいしょう)と表現したが、まさに明治三陸大津波や今回の東日本大震災大津波は「海嘯」と言うべき規模である。

4.官報記事

官報第3889号 明治29年6月17日

明治29年6月17日の官報記載が明治三陸大津波の第一報。大津波発生の翌々日の官報に早くも記載されている。当時は現地の報告は内務省宛の電報を用いて行われた。地震や海嘯被害の記事は官報の「雑事」の項目に含まれていた。

官報第3890号 明治29年6月18日

官報の海嘯被害に関する記事は、2回目(官報第3890号)以降、次第に詳細になる。大津波の原因については志津川沖を震源とする地震によるものと記している。宮城集治監(今の刑務所)の出張所が雄勝浜にあったことが記載されている。当時は服役囚を野外作業に使役していたものであろう。その集治監出張所が津波に襲われ、看守(今の刑務官)や服役囚に犠牲者が出たことが記載されている。

官報第3891号 明治29年6月19日

宮城・岩手・青森三県の津波被害について、本号以降、具体的な町村名をあげて具体的な被害状況を報告している。報告内容は流失家屋数と死者数。本号では件数は概数記載となっている。岩手県を旅行中のフランス人宣教師が被災して行方不明となった件も記載されている。

官報第3892号 明治29年6月20日

本号では宮城県・岩手県・青森県・北海道の被災状況が詳しく記載され、宮城県では医師・看護人を現地に派遣して救護に当たらせた事、知事以下の県役人が現地に赴いて救助の指揮を執ったことが記載されている。さらに、岩手・宮城・青森各県の被害状況が初めて一覧表として掲載された。岩手県の死者はすでに一万人を超えており、激甚な津波被害であったことがうかがえる。一覧表の項目は死者・傷者・流失及破壊家屋と区分されている。

官報第3893号 明治29年6月22日

本号で宮城県本吉郡・桃生郡・牡鹿郡内各村ごとの被害状況が列挙されている。岩手県では津波により数多くの駐在所勤務の警察官とその家族が犠牲になったことが逐一記載されている。本号以降、警察官の殉職に関する記事が載せられており、これは官報としての性格によるものであろう。

官報第3894号 明治29年6月23日

 本号では青森県の被災状況について記載されている。「死亡者ノ中未タ其死体ノ知レサル者多シ」と記され、当時は行方不明者も死亡者として数えていたことが分かる。

官報第3895号 明治29年6月24日

宮城集治監雄勝浜出張所被災の様子が具体的にしるされている。監房の中は高さ1.8mまで水没したことがうかがえる。岩手県では気仙郡・南閉伊郡・東閉伊郡・北閉伊郡・南九戸郡・北九戸郡の各町村についてかなり詳細な被災状況の一覧表を掲げた。項目は人口・死亡・負傷・健在者・戸数・流失家屋・半壊家屋・存在家屋の順で、岩手県内においてはかなり詳細な被災状況の調査が進捗したことをうかがわせる。当然のことながら被災状況の中間報告であるが、被災地における組織的な調査と救援が行われたことがうかがえる。青森県では被災者の手当のため、陸軍病院や赤十字社から医師や看護人が現地に派遣されている。

官報第3898号 明治29年6月27日

岩手県の記事。6月15日の津波襲来の前後の様子が具体的に記述されている。それによると、旧暦の端午の節句の飲み会で飲酒し酔いが回ってきたところに弱い地震が起きたため、人々の警戒心が薄れ、そのことも犠牲者の数が多くなった一因と考えられないだろうか。

警察官や役人を被災地に派遣し、救助活動の現地指揮を取らせたことが記されている。文中「有志者ノ寄付ニ係ル人夫」とは、今のボランティアのことである。医師など医療従事者の中にも多くの犠牲者が出て、急遽医師や看護人を雇用したことや第2師団(仙台駐屯地)から軍医、赤十字社からも医師や看護人を派遣したことが記載されている。福島赤十字社からも医師・看護人が派遣されたことが特筆されているのは興味深い。被災地では食糧も不足していたようである。

気仙郡では津波の高さ五丈=15m〜数丈=17m〜18mであったことが記されている。気仙郡は今の陸前高田市にあたり、今回の東日本大震災でも市の中枢部が津波で壊滅したが、明治三陸大津波でも同様の被害であったことがうかがえる。津波が高くなりやすい地形なのであろうか?田老村(今の宮古市田老町)では十余丈=約30mの津波が押し寄せ、2655人が死亡し村役場職員と小学校の教員が全て殉職している。重茂村や船越村も壊滅的な被害を受け、山田町では津波後の火災で多くの犠牲者が発生したことが記されている。

本号においても気仙郡・南閉伊郡・東閉伊郡・北閉伊郡・南九戸郡・北九戸郡の各町村についてかなり詳細な被災状況の一覧表を掲げている。そのなかで釜石は死者4700人と最大の被害を受けた自治体である。

5.まとめ

 明治29年6月の官報に記載された大津波の被害について、犠牲者数を集計すると以下のようになる。

宮城県  2,584人 官報3893号 明治29年6月22日段階

岩手県 23,309人 官報3898号 明治29年6月27日段階

青森県    346人 官報3865号 明治29年6月24日段階

合  計 26,239人

岩手県の犠牲者数が圧倒的に多いことがわかる。これは地震の震源地が岩手県沖にあったことによるものであろう。

平成23年東日本大震災の犠牲者数(死者数+行方不明者数911日現在)と比較してみよう。

福島県  2,079人

宮城県 11,606人

岩手県  6,348人

青森県      4人

今回の東日本大震災では宮城県の犠牲者数が圧倒的に多い。これは震源地が宮城県沖にあったこと、津波の性格その他要因によるものであろう。

明治三陸大津波が発生した明治29年の海岸線には、現在のような近代的防波堤は建築されていなかったため大津波により数多くの人が犠牲になったと思われるが、この明治三陸大津波やその後の昭和三陸津波・チリ地震津波の教訓により大規模な防波堤を築いたにもかかわらず東日本大震災では明治三陸大津波の時以上に津波浸水範囲が広がり二万人以上の犠牲者数が出たということは、マグニチュード9.0という数値に代表されるように、今回の地震は明治三陸津波の原因となった地震に比べてあまりにも規模が大きかったことを意味していると思わざるを得ない。

以上、官報から明治三陸大津波の記事を読んでみたが、津波襲来後の経緯や被害状況の数値などをかなり具体的に知ることができ、官報が歴史資料として有為であることを確認できた。もちろん明治三陸津波については官報以外にも多くの記録があり、それを詳細に調べなければ全貌は理解できないことは言うまでもない。

官報は政府の機関紙である以上、当時の政府の立場からの記載であることは否定できない。そういった意味から、記事の種類によっては記事が書かれた背景を考慮する必要もある。

政府刊行物も公文書であることから、過去の歴史を教訓に、今回の東日本大震災そして原発事故に関する記載については、今後、事実を隠蔽することなく公正な記載がなされることを期待するものである。

 
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