平成20年度歴史資料研究巡回講習会資料
平成20年7月 楢葉町コミュニティセンター
 

漂 着 神 の 研 究

−北田天満宮の縁起について-

福島県歴史資料館
山内 幹夫

1 はじめに

 北田天満宮は、現在楢葉町北田字上ノ原に所在する。祭神は菅原道真公で、祭日は1月25日と8月25日。現在の場所に建立したのは、明治12年である。

 天満宮由緒や、地元北田・前原地区に残る伝説によれば、もともとは、脇カ浜村の阿部岩前という所に祠としてあったが、洪水と高波で脇カ浜村が壊滅した後、元和元年(1615年)に北田字上ノ原に遷宮。しかし、その後も波濤により海岸線が後退し、明治12年に現在の位置に遷宮したとされている。

 天満宮の縁起については、昭和44年に口頭伝承調査を実施。昭和46年には、当時、橋本新一氏が所蔵していた「天満宮御縁起」をお借りし複写、菊池康夫氏に解読していただいた。

 この縁起に関する伝承資料は、漂着神伝説のひとつの形態であり、記録にとどめておくべきと考え、磐城高等学校史学研究クラブ発行の「考古第17号」(昭和47年2月)に「村社の由来−北田天満宮について−」と題して発表した。その折りに佐藤次男氏の「漂着神の研究」を参考に、佐藤氏の漂着神伝説の形態分類との比較を試みた。

 その後、昭和44年当時に口頭伝承にご協力いただいた方々はほとんどが物故され、調査報告を掲載した「考古第17号」も県立高校が発行したクラブ誌であったことから、改めて何らかの形で再整理の上報告したいと考えていたが、何もしないまま36年が経過した。今回の歴史資料研究巡回講習会の機会を得て、改めて、整理を試みることにする。

2 失われた天満宮勧請の村 脇カ浜村

天満宮縁起の口頭伝承と文献資料を紹介する前に、最初に天満宮が勧請された脇カ浜村について触れておくことにする。

脇カ浜村は、言い伝えによれば、慶長年間(1596年〜1615年)に金剛川(木戸川)の大洪水と高波によって大部分が壊滅したとされている。

文献資料では、文禄4年(1595年)11月の「岩城領検地高目録」に脇カ浜村の記載が認められる。「わきの村」と記されている。したがって、実在した村であることは確かと考えられる。

「楢葉郡

1 九百廿五石三斗四升    山田 村

1 弐百四拾弐石九斗四合   わきの村

1 弐百七拾八石八斗四升   前原 村」

この文献は、文禄四年、佐竹又七郎義憲が実施した検地高目録。豊臣秀吉の施策により常陸領佐竹氏により岩城領検地が行われたことによるものである。

さらに、慶長13年(1608年)脇之浜村(193石6斗2升)、正保4年(1647年)脇浜村(193石6斗2升)という記録もあり、それ以降の記録は途絶えている。

 口頭伝承では、

山内八郎氏(昭和44年筆者聞き取り)

脇カ浜は、今の海岸線より一里程出ていた部落だ。山所布や松ヶ丘、上繁岡、ホトトギス山の近くに住んでいる人たちは、金剛川の洪水で脇カ浜が流された時に移ったと言われる。上繁岡の地福院や井出の大楽院も脇カ浜から上がったそうだ。

梶原威氏(昭和44年筆者聞き取り)

もと脇カ浜は、今の前原部落より一里先にあり、戸数は千軒位あったそうだ。そして、そこを梶原氏が治めていたということである。

矢内常夫氏(昭和44年筆者聞き取り)

天神岬は、今よりも一里先にあり、同じく一里先に脇カ浜千軒という、家が千軒もある大きな部落があったということだ。ところが、岬が潮のためだんだんと崩れて来るので人々は上繁岡に移った。それで大半の上繁岡の人々の先祖は脇カ浜から来たんだ。

松本義男氏(平成9年聞き取り 楢葉町教育委員会)

かつては、脇カ浜村があったので、木戸川は今のように真っ直ぐでなく、海岸の南に沿って流れていたという。

猪狩徹次氏(昭和49年聞き取り 楢葉町教育委員会)

江戸時代の頃、木戸川が大洪水に見舞われた。木戸川は脇カ浜村の中央を流れていたといわれ、村は真ん中から激流に押し流され、見る見る間に村は流失したと伝えられている。村にあった地福院は上繁岡に移り、村人は上繁岡・松カ岡・立石・大谷などの村に移り住んだと伝えられている。天満宮も村から離れた松林の中に移されたといわれている。明治30年頃には、天神岬は今の崖より約60m以上も陸地が突き出していて、松林になっていた。そこには、脇カ浜から移された時の天満宮の神社跡がはっきりと残っていた。

松本義男氏(平成9年聞き取り 楢葉町教育委員会)

脇カ浜の地名の一部だったとされる「ささむね」が、まだ海中に残っていると伝えられている。前原海岸から東海上約200m位先のところに、潮が引いた時、海底の磯が海面に出るといわれ、また、台風で海が荒れると「ささむね」の所はうねりが非常に高くなり、その辺りは白波が立つので、昔の船乗りはよくわかったということだ。

 過去に、楢葉町の海岸が、今の海岸線より、200mから300m先まで出ていたという伝説は、他にも山田浜にも「弘法池」や「鼻どり地蔵」の伝説として残っており、猪狩徹次氏の話にあるように、約80年前には天神岬が今の崖より約60m以上も突き出ていたという近代の記憶からも、370年以上も前の近世初期には、海岸線が今より300m近く海側に出ていたとしても不思議ではない。一里先まで出ていたという伝説は誇張であろうが、300m程度先に出ていれば、そこに集落が存在していたとしてもおかしくはないだろう。さらに伝説の「ササクネ」という磯石は松本義男氏の言う「ささむね」に該当するものであろう。「岩城領検地高目録」に記載された石高242石の「わきの村」は、伝説上の脇カ浜村に該当すると言えよう。したがって、脇カ浜村は実在し、洪水や高波などの自然災害で壊滅して、当時の村民が内陸部に移住したという話も史実の可能性が高い。

3 梶原氏について

 北田天満宮の縁起伝説に登場する梶原氏(梶原豊後守)は、脇カ浜・前原一帯を治めていた領主で、浜の城に館を構えていたとされている。浜の城は、現在でも「浜城」という字名で残っており、近世以来の造り酒屋をはじめとする小規模な集落となっており、あるいはそこに、平地式の館が存在していた可能性はある。

 梶原氏は、初めからこの地にいたのではなく、相馬の方からやってきたという伝説がある。昭和44年12月に、前原字宿田におられた梶原威氏宅に保管されていた梶原氏系図を見る機会があったが、それによると、梶原丹波影氏という者が相馬勝種公の国替えに従って奥州相馬の夫沢(現在の大熊町夫沢)に居住し、団子橋という所の50石を拝領したという記述がある。相馬勝種という大名はいないが、あるいは相馬勝胤(名君相馬忠胤の前名)かもしれない。承応元年(1652年)土屋式部直方の相馬家相続が徳川幕府に正式に認められ、上総国久留里を出立し、江戸土屋邸に着いて、ここで直方は相馬式部勝胤を称している。このとき若干16歳である。

系図には、梶原丹波の他、渡部五左衛門(山田)・渡部五太夫(前田)・志賀弥右衛門(郡山)・武沢源六(下条)・小野田太郎左衛門(新山)・渡部藤七部(郡山)・松是清右衛門(中村御城下)たちが相馬勝種公(勝胤か?)に供奉した褒美に槍を拝領した旨の記述もあるが、のちに、梶原丹波は前田(双葉町)の極楽寺で口論がもとで3人の武士と斬り合いとなり、梶原丹波が1人で3人と刀を交え、1人を即死させ、残り2人はちりぢりに逃げてしまったという記述もあり、梶原丹波はなかなかの武断の士であったようである。

梶原威氏宅に保管されている系図からすれば、梶原氏は相馬藩内に居住していたと推察されるが、天満宮の由緒に関係している梶原氏は、梶原豊後守であり、伝承でも豊後守以外の梶原氏は見ることができない。梶原氏系図にも豊後守は出てこないので、系図に書かれている梶原丹波影氏との関係もわからず、詳細は不明である。

 
 
 

4 北田天満宮縁起に関する文献記録

   「天満宮御縁起」 (本文 別紙1)

※別紙1の由緒書文書の他に、前原の矢内七一氏が所蔵している「北田天満宮由緒」もあり、内容はほぼ同じであるが、表紙に「天正元丑年 天満宮大自在天神 当祖 奉伶」と書かれ、本文の前に「楢葉郡 前原村持主 名主勘太郎」とあり、本文の終わりに「矢内 奉  広(花押)」と書かれ、前原村の宮守方の2番目が清次郎となっており、北田の橋本新一氏所蔵文書との違いが認められる。

 さらに別紙2に、天満宮に掲額している、橋本新一氏が昭和39年に作成した由緒書きの写しを掲載した。

−現代語訳(意訳)−

「天満宮御縁起」(所有者:橋本新一氏)

そもそも、当社「天満宮」の由緒は次のとおりである。陸奥国楢葉郡の脇カ浜の鎮守として奉られた方は、薬師如来の沖から波に乗り、洞見ケ平火打山に出現した後、徳治元年(1306年)に、脇カ浜庄の東に「笹ク子」という磯石があるが、そこに童子天神が腰をかけられ、3年3月25日お住まいになった。その訳はご神体に印がある。その頃金剛川の上流に御滝明神が奉られ、(童子天神)が海中にお住まいになっていることを御滝川に毎日梵字を流してお知らせした。

延慶元年(1308年)8月23日の午後5時頃「子供と見られる者が波に乗り、砂浜に打ち上げられた。5歳くらいの河童のような髪型の子供が一人、波の中で6090pの竿を持って、波をたたいて遊んでいる様子に見える。」という知らせがあった。

この時、脇カ浜村は戸数が203軒あった。脇カ浜村を行き来する道は、山田館の下から赤沼を通り宿田、宿之内を通るルートで、その子供は、その道を通って来た者か、どこかの浜の者なのかわからず、とても不思議であった。

その子供が現れて遊んでいるところに村の人々が駆けつけ近寄ってみると、何事もなく、跡形もなく消えてしまった。しかし、毎日午後5時頃になるとその子供が現れて遊んでいる。脇カ浜村の人々は「いったいどこの家の子供か」と皆不思議がった。「このように得体の知れない者が現れるということは、この後、何か変なことが起きるのではないか」と脇カ浜村じゅう大騒ぎとなった。ときの脇カ浜村領主である浜之城の館にいた梶原豊後守に、村人がこのことを報告したところ、梶原豊後守より「このことが本当ならば、神事を執り行い、村人皆が一日拝んで、子供が現れるのをお待ち申し上げるように」との指示が下った。

早速、脇カ浜村の名主2名が村じゅうにお触れを出し、8月28日に、村人が集まって一日じゅう拝み、例の子供が現れるのをお待ち申し上げていたところ、午後5時になって例の子供が出現し、いつものように遊んでいる。まわりに居合わせた人々がそれを見離さないようにして伏し拝んだところ、跡形もなく消えてしまった。人々があわててどこに消えたのかあたりを探したところ、浜辺の波打ち際に、人の形に似た黒い石があった。「さてはこの石はただの石ではない」と人々が不思議がって見れば見るほど石が動き、人に似た石であった。このことについて脇カ浜村名主が梶原豊後守に報告したところ、「9月1日に神社の神主に頼み、湯立ての儀式を行うように」との指示が下った。

9月1日に脇カ浜村において神主が湯立ての儀式を行ったところ、黒い石は童子天満宮の御神体であるとのご託宣が下った。脇カ浜村にある地福院は同村203軒の旦那寺であるため、領主より別当を命ぜられていた。別当は信者より勧進し、京都に上り、智積院に行ってそこの取り次ぎを受けて北野天満宮別当に会い、脇カ浜村の童子天満宮のいきさつを報告したところ、北野天満宮別当が神立した上で「九州の太宰府天満宮が御本元である」と、この神(脇カ浜村の童子天満宮)のことについて詳しく説明してくれた。そして、北野天満宮別当から、ご神体として脇立木像天神をプレゼントされた。地福院別当は大喜びでご神体を戴き、楢葉に戻り、阿部岩前に祠を造り、奉納した。その後地福院や脇カ浜村は大変繁盛した。

慶長年間の頃、脇カ浜村において、天満宮の祠の普請について相談したところ、領主の梶原豊後守や地福院・氏子である村人共々、今は物いりでお金がないため、今の祠のままにしておこうという事になった。浅ましいことで、無信心にもひとしいことである。その後大洪水が起こり、金剛川が決壊し脇カ浜村の中心部が大水に襲われた。さらに高波がおこり、25日間大波がおしよせ、203軒の家がことごとく破壊され、住民は郭公山に避難した。その上、地福院は無住職状態になり、梶原豊後守も国替えになり、脇カ浜村の天満宮は社ばかりが残り、海の波や寄せ川水がせまり、次第に危うい状態となってしまった。

その時、前原村名主の与右衛門が天満宮の宮番をしており、あまりにもひどいということで黒い石と木像の両方のご神体を自宅に避難させて、氏神の祠に納め、一晩お泊めしたところ、ご神体が殊の外ご立腹したとみえて暴れだすという不思議な現象が起きた。気味悪くなってご神体を元の社にお返しし、波よけなどの措置を施しておいた。

その後、村役の交替があり、前原村の名主となった清次郎と北田村の名主である庄蔵が氏子達と相談し、昔、一夜にして小高い森ができたという言い伝えが残っている上ノ原の林の中に天満宮を移築することとなり、建築工事を急ぐこととなった。天正元年、楢葉郡脇カ浜天満宮と命名し、同年の8月25日までに竣工して、別当がご神体を奉納した。

内藤能登守の時代に、役人の山田弥兵衛と赤坂平太左衛門が、木戸郷の建築材として天満宮社林の松を伐採したところ、木戸郷に度々火災が発生。由ケ沢と焼野の2カ所に井戸を掘ったところ、水が全く湧かない。折木村湯沢において木を伐採するために役人が登ったところ、嵐のために作業が出来なかった。まもなく内藤能登守が国替えとなったが、そのあと役人の山田弥兵衛と赤坂平太左衛門は急病で死んでしまった。このような出来事が続いたことについて、天満宮の神罰が下ったと、村中評判となった。

内藤備後守の時代になって、備後守がこの出来事について調べたところ、天満宮の社林の松を伐採したことの祟りであることがわかり、伐採した木の数をカウントし、同じ数の松苗を植林した上、天満宮の社林9反11歩について御神林として指定、家老以下諸役人に天満宮への信心を指示した上、木戸郷においては毎月25日に神事を執り行うよう命じた。

天正5年(1577年)9月1日

                        楢葉郡北田村

                          宮守方 

                                庄蔵

                          同    喜十郎

                        同  前原村

                          宮守方

                             与五左エ門

                          同    清五郎

※現代語に意訳した文章を読んでもわかるとおり、天正5年の文書に、その後の慶長年間の出来事が記載されたり、平藩主内藤氏のことが記載されたり、慶長年間に脇カ浜村に大洪水や高波がおしよせて村がほぼ壊滅した後、天正元年に楢葉郡脇カ浜天満宮として上ノ原の林の中に天満宮を移築したなどと、年代的に著しい矛盾が認められることから、この文書は近世の比較的新しい時期に、口頭伝承を寄せ集めて記載した由緒書と推定される。歴史的文書というよりは、伝承記録として取り扱う必要があるだろう。意訳に誤謬があれば、ご容赦願いたい。

5 北田天満宮縁起に関する口頭伝承記録

@山内八郎氏(昭和44年筆者聞き取り)

徳治元年(1306年)、陸奥国楢葉郡の脇カ浜に、毎日七ツ半になると坊主らしい人が薬師堂に現れて、砂浜では女子には針を、男子には字を書いて学問を教えていた。これを村人達は変に思い、化け物が現れたと大騒ぎになった。

梶原豊後守はこれを見て不思議がり、山伏や村人達を集めて斎戒沐浴して坊主や子供達の所に近寄った。ところがその時、坊主や子供達が黒い石に変わってしまったのだ。梶原豊後守達はこれを見て不思議がり、何かの神体ではないかと思い、その黒い石を奉ったのだ。

そのできごとを、今の東京の亀戸天満宮を通じて間接的に九州の太宰府に報告したところ、これが天神様の御分霊であると言って来たので、そのご神体が天神様であることがはっきりした。そして、梶原豊後守が脇カ浜の小高い丘に天神様を祭ったのが北田天満宮の縁起といわれる。

A梶原威氏(昭和44年筆者聞き取り)

 朝、海へ出たところが、そこに子供がいた。近寄ってみたところ、それが御神体だった。それを持って家に帰り、家の中に置いておくと、夜になって騒いだりするので、それを置いておくと罰があたるのではないかと思い、それをお祭りしたそうだ。

B矢内常夫氏(昭和44年筆者聞き取り)

 天満宮の御神体は石の玉だと言う人がある。木戸川の下流のほうで御光がさすのをみて、その石を御神体にお祭りしたそうだ。

C山内晃氏(昭和44年筆者聞き取り)

 ある時海辺で3人のオカッパ頭をした子供が遊んでいた。村人はそれを見て、海で遊ぶのは危ないと連れ戻しに行ったところが、先ほどまでは3人いたはずが2人しかいない。村人は、そこにいた2人の子供を連れ帰ったが、その後で、先ほど3人いたうち見えなくなった、どこから来たのかわからない子供が1人で遊んでいた。2人の村の子供は、その正体のわからない子供が遊んでいたために誘われて一緒に遊んでいたのだった。村人はこれは不思議だと思って神おろしをすることになった。坊主が神おろしをしたが、神おろしをやって見ると、これはただごとではないということから、近郷の坊主たちが集まって身を清めて、その得体の知れない子供を捕らえようとした。ところが何回やっても捕らえられない。遠くで見ていると子供が見えるのに、近くに寄ると見えない。現れたり消えたりしているうちに、小さな寝ている牛の形をした金石が浜辺で見つかった。坊主はそれを拾ってふところに入れて前原の名主の所へ持って行った。名主はそれを飾って置いたが、夜になるとその金石は光を放った。それで、その金石を行灯がわりにしたところが、家族全部が死んでしまった。人々はその金石を行灯かわりにしたために罰が当たったのだと思い、高い山の菖蒲ケ原に祭った。初めは北田(菖蒲ケ原のある地区)と前原(金石の見つかった地区)の両方の名前をとって北前神社と言った。

 そのうち、京都の北野天満宮からお札を勧請してもらって、金石と共にそのお札も奉った。そのうち北前神社は、その神社の所在地が北田地区であるため、北田天満宮というようになった。

 御神体の金石とは寝た牛の格好をした金鉱石であるということだ。今でも残っている。その石だけは泥棒が押し入っても絶対に盗まれないということである。

D橋本新一氏(昭和44年筆者聞き取り)

 浜にあがって磯石に腰掛けていた子供のことを童子天神と言ったのだが、毎日同じ時刻に現れても、捕まえようと行ってみるといなくなっている。そのうちにその子供が金の石に変わった。

E矢内常夫氏(昭和44年筆者聞き取り)

 天神様の秋祭りは民間行事となっていて、北田と前原とが一緒になってやっていた。また、前原が飢饉の時、食べものを北田の方からわけてもらった代わりに、天満宮の権利を北田に渡したというような話が、笑い話みたいになって伝わっているということだ。

F井出宣氏(昭和44年筆者聞き取り)

天満宮の宮社を修築するときに御神体の石を見たが、黒い色をして、白いところが所々にあった、ごく普通の石だった。

G矢内一氏(昭和44年筆者聞き取り)

 宿田の梶原威さんの家に、見ると目がつぶれると言われている金石があるということである。

6 伝承記録の整理

 口頭伝承を一覧すると、先ず@・C・Dにおいて類似点が見受けられる。すなわち、浜辺に子供(@では坊主)が現れて奇怪な現象を示し、後に石に化けるという点である。それと比較して、Aは浜辺に子供がいて近寄ってみたら御神体だった。Bは御神体が御光さす石の玉だった。ということで、@・C・Dの類似を2分した形であることに気づく。しかし、A・Bも、@・C・Dの話と無関係ではないことから、それぞれの話に違いは見られても、全体的には、童子(坊主)が浜辺に出現→奇怪現象→石に変化、というストーリーをもとに、口頭伝承のバラエティが認められるという形で理解すべきであろう。

 なお、口頭伝承@は浜辺に坊主が現れ、その坊主が村の子供たちに教育を施したという点が他の伝承と比較して特異である。

 文書資料である「天満宮御縁起」「北田天満宮由緒」に記述されている伝承も、内容的には同じで、より具体的で、漂着神伝説の性格を有している。しかし、口頭伝承@に見られるような、教育伝説は含まれていない。

 しかし、各伝承とも、御神体は石となってしまう。黒い石・金の石・石の玉で、口頭伝承Cでは霊験あらたかな御神体とされている。口頭伝承Aも、御神体は石とは述べていないものの、霊験あらたかなものであることを述べている。

 北田天満宮の改修に立ち会った、宮司の井出宣氏の話によれば、白い斑が点在する黒い石ということであるが、石質については不明であり、そのことは、今回の検討作業の目的から外れるため、ここでは問わないこととする。

7 まとめ

福島県にまとまった漂着神研究の資料がないため、ここでは、茨城県の佐藤次男氏の研究を参考とする。文献は下記のとおり。

佐藤次男1970年「漂着神の研究(二)」『茨城の民俗 第9号』

 佐藤氏によれば、太平洋岸(茨城県)に分布する資料には、

@     天竺等理想郷から来るもの

A     船または他の乗物(鮑)で来るもの

B     単独で来るもの、または姿を見せぬもの

C     怪光または奇譚を伴うもの

D     神の託宣を伴うもの

E     遠征、開発経営の神々のあること

F     漂着地点が海辺聖地とされるもの

G     浜降祭がおこなわれるもの

などの特徴を挙げることができるとされている。

北田天満宮の伝承の場合、以上に挙げられた特徴の中では、B単独で来るもの、または姿を見せぬもの。及び、C奇譚を伴うもの。D神の託宣を伴うものがあてはまる。

奇譚を伴うということでは、人々が遠くから浜辺を見ていると子供がおり、近づくと消えるということ。人々が近づいて子供が消えた浜辺に石があったということ。口頭伝承@でいうならば、坊主や子供もろとも黒い石に変わったということがあてはまるだろう。

 神の託宣ということでは、口頭伝承@で、そのできごとを、今の東京の亀戸天満宮を通じて間接的に九州の太宰府に報告したところ、これが天神様の御分霊であると言って来たという点や、口頭伝承Cで村人がこれは不思議だと思って神おろしをすることになった。坊主が神おろしをしたが、神おろしをやって見ると、これはただごとではない。などという点や、「天満宮御縁起」「北田天満宮由緒」における北野天満宮別当の託宣があてはまるかもしれない。

 以上の他に、「天満宮御縁起」「北田天満宮由緒」に「笹ク子」という磯石に童子天神が御腰を懸けていたとあるが、茨城県ひたちなか市(旧那珂湊市)釈迦町にある天満宮の神幸地が腰掛石という点で共通している。

漂着神のなかで、菅原道真にまつわる伝承が比較的多い。さらに上記佐藤次男氏は「菅原道真は没後いくばくもなくして御霊信仰や雷信仰と結びつき、北野信仰となり、天満大自在の称号を得て尊崇を受くる地位を確固たらしめた」と述べている。「天満宮御縁起」「北田天満宮由緒」でも「北野天満宮別当に会い、脇カ浜村の童子天満宮のいきさつを報告したところ、北野天満宮別当が神立した上で『九州の太宰府天満宮が御本元である』と、この神(脇カ浜村の童子天満宮)のことについて詳しく説明してくれた。」と記されているのは、北野天満宮のご託宣と解釈することも可能で、北田天満宮の伝承も北野信仰のバリエーションのひとつとして理解することも可能であろう。

 次に御神体が石ということで、福島県の石に関する伝説と比べてみても、北田天満宮の由緒に類似する様なものはない。子を産む石とか、成長する石、子持ち石などや、難波した夫を待つ老婆が石に変化した話、鮑取りに行った漁夫が海に落ちてそのまま石になった伝説があるが、天満宮の伝承とは類似性がない。

 ただ、いわき市江名町の永崎海岸のへそ石伝説や、いわき市久之浜町波立薬師海岸の小石伝説は、石を移動した場合何らかの異変や怪現象が起こるという点で、北田天満宮の口頭伝承A・Cや「天満宮御縁起」「北田天満宮由緒」の記載と類似している。

 以上、おおざっぱに述べて来たが、北田天満宮の由来は、民俗学上、伝承の性質として独自の性格を持つものと言うことができよう。

参考文献

佐藤次男1970年「漂着神の研究(二)」『茨城の民俗 第9号』

山内幹夫・清野喜次1972「村社の由来−北田天満宮について−」『考古第17号』磐城高等学校史学クラブ

楢葉町1988年『楢葉町史第二巻 自然・考古・古代・中世・近世資料』楢葉町史編纂委員会

楢葉町1991年『楢葉町史第一巻 通史上』楢葉町史編纂委員会

楢葉町教育委員会2006年『楢葉町の民俗 暮らしの足あと』

 
文 献 資 料
 

「天満宮御縁起」(所有者 北田 橋本新一氏)

 当社天満宮之勧請由来ヲ奉尋、陸奥国楢葉郡脇ケ浜鎮守ニ御立給者薬師如来沖ヨリ波ニテ乗上ケ奉ル洞見ケ平堂燧山ニ御立給フ其後チ徳治元丙午年脇ケ浜庄東ニ当タリ笹ク子ト云磯石有之候場所ニ童子天神トテ磯石ニ御腰ヲ懸ケ三年廿月五日御楢ミ被其訳者御神躰ニ印有其頃金剛川上ニ御滝明神御立給御滝川之梵字毎日流伝リ海中ニ御住被成候知セ有之頃者正慶元酉年壬八月廿三日七ツ半時ヨリ知セ有之候其訳者子供姿ト見ヘ波ニ乗リ須賀ヘ打上リケレバ五ツ斗ノ禿節成子供壱人湯之中ニテ弐三人石ヲ持チ波ヲ??キ遊居様子ニ見ヘケル其時脇浜弐百三軒有之往還通リ山田館下ヨリ赤沼通リ宿田宿之内往来筋ナレバ通候又ハ浜者トモニ不思議ナル子供出テ遊居ト人々右之子供遊所ヲ見給ヒ共何歳ノ印無ク毎日七ツ半時ニナリケレバ右之童子遊居浜中ニ者共誠ニ不思議ヲ立何  之子供ナル不思議成モノ出候ラハ此末何事哉可有  浜中故騒キ其時脇浜城主浜城館に而梶原豊後守殿江右之次第御届申上ケレハ御上ヨリ真実事ナレハ神事ヲ致シ一統日待拝ミ可取候ト御下知有之早速脇浜名主弐人口(御力)触出シ同八月廿七日日待拝シ致シ右之童子出現ヲ待受ミ候得ハ程無ク七ツ半ニ成ケレハ右之子供井テイツモエ何ク遊ケル早速北南ヨリ人々見不離伏シ拝ミケレハ験ナシ大勢之人々取散ラケ此処尋ケレハ波之際ニ人ニ似タル黒石アリ猪在(者)此石唯シ石ニハ無御座候と人々不思議ヲ立見ル程勧力如ク人ニ似リ御石ナリ左之訳名主ヨリ殿様ヘ御訴申上ケレハ社家方ヲ願シ九月朔日神立湯立ヲ可致与御下知有之早速九月拘日脇浜村ニ於テ神立湯立ヲ奉レハ童子天満宮ト示顕シケル右浜地福院弐百三軒之旦那ナレハ御上ヨリ御別当職ト被仰付候且中ヨリ罷出勧化致シ早速山城国京都江相登リ智積院江参  官位ヲ戴キ右御本寺ヨリ取次ヲ以北野天満宮御別当ヘ御願シ申上脇浜天満宮由緒ヲ申上ケレハ北野御別当神主之上ニテ御諭シケレバ九州筑前之国在 府天満宮者御本成 右御神之訳神可成 委ク御教諭有之御別当此方ヨリ脇立チ木像天神国元ヘ送リケル難有モ京都北野ヨリ疾速地福院収戴御神口奉請御暇急キ国元ヘ下向仕阿都岩前工勤祠ヲ造リ奉納後別当地福院件脇浜郷中繁昌致シ罷 候処慶長年中元頃右御神造営之儀相談致シ候得共殿様住寺件氏子共物入等ニ不相成ト申是迄之通勧祠ニテ納置候而ケル  モ浅クロ小社ナレハ信仰モ無ク不相成 其後大洪水ニテ金剛川辺リ満水致シ脇浜真中江押切シ流レケル尚又海崖渚高波相成廿五日之間大浪ニ而弐百三軒之家数不残郭公洞ト散リニ而 越ヲ致シ其上地福院住ニ罷成ス浜之城梶原豊後 守殿モ御国替ニ被成脇浜ニ而天満宮斗リ残リ段々海件川共々寄来リ右之御社ヘ波引寄セ危キ相成前原村名主 五右エ門其時 番致シ     私宅ヘ口ニ移引故鎮守宮江一夜相当候得者殊之御神リ不思議不事有之右之 ヘ納返シ波除リ杯致シ其後右村後口替リ名主清五郎件北田村名主庄蔵両人氏子供江相談致シ上ノ原御林之内  シ以請所ニ者夜一夜ニ小高森出来タル天満宮之社地相成訳急速普請造営之取懸リ天正元発酉年楢葉郡脇浜天満宮ト名号同八月廿五日迄ニ著講成就致シ右之社奉納村別当相立候由緒村廻リ致シ村内ニテ鹿 未有無之名主セ話之致 其後北田村名主文五郎相勤官番致シ其后内藤能登守殿御代に至テ天満森御林ナレハ山役人山田弥兵衛赤坂平左衛門両人木戸御家道具ニ松木伐出シケレハ其後廿五日ト宮時之木戸郷度々出火又者字由ケ沢焼野弐ケニ溜 道具埋ケレハ水一切持又者折木村湯沢道具杯可伐 御役人右之口ヘ道具相登リケレハ伐ニ辰巳嵐風吹立伐事不成成間ナリ内藤能登守殿御国替罷成候右山役人弐人共々急病ニテ死来リケレハ上ニ茂神罰可当  人々許判有其後内藤備後守殿御代ニ相成御殿様御糺ニハ天満宮   セ  松本ハ相心得伐出シ木数相改メ早速植返サセ其上御除林トシテ御林 中取 九反拾壱歩被下置其御殿様不及申御家老諸家中共々不残一統信心被遊候又者木戸郷月之廿五日 神事信心被仰付由緒也

           

                                天正五年丁丑九月朔日 

                                      楢葉郡北田邨 

                                        宮守方 

                                         庄蔵 

                                      同    喜十郎 

                                      同  前原村 

                                        宮守方 

                                           与五左エ門 

                                                                              同    清五郎 

 
 
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