思い出の尾瀬 2001年7月8日 後編
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尾瀬ヶ原は、いったい何時頃から人々に知られるようになったのだろうと思い、僕は、平成21年5月より『福島県史料情報』(福島県歴史資料館)に「檜枝岐村絵図について」という記事を連載した。以下に原文のまま再録しよう。ただ、絵図そのものは檜枝岐村教育委員会からの寄託資料なので、資料掲載許可を得ないと掲載できないため、文章のみの掲載とする。

檜枝岐村絵図について1『福島県史料情報』第24号 平成21年5月 福島県歴史資料館)

檜枝岐文書は、江戸時代に檜枝岐村名主であった星家の文書が檜枝岐村教育委員会に引き継がれ、教育委員会から当館に寄託されたもので、総点数は一六四一点ある。檜枝岐村は、寛永二〇年から南山御蔵入として会津藩主の保科家が管理、元禄元年に保科正容の代で御蔵入の地を返上したことで幕府直轄地となった。檜枝岐村はロウや材木の生産地であったため、沼田街道の領地境には口留番所が設けられている。古文書を引き継いだ星家は、口留番所の役人を勤めていた。今回檜枝岐村絵図を取り上げた理由は、そこに、尾瀬沼そして尾瀬ヶ原一帯を含む、現在で言う「尾瀬国立公園」エリアのことが記されているからである。尾瀬の周辺はいつ頃の時代から人々に知られるようになったのか、江戸時代の人々は尾瀬ヶ原周辺のことをどれだけ知っていたのか、そういう視点も含めて絵図を紹介したい。
村絵図 萬治四年(一六六一年)
最も古い村絵図である。萬治四年は四代将軍徳川家綱の治世、会津藩初代藩主保科正之の時代で、南山御蔵入として会津藩主の保科家が管理していた時代でもある。絵図は墨一色で、朱書きなどは見られない。比較的大雑把な筆致で、下描きの可能性もある。絵図は阿賀川の支流実川(現在の檜枝岐川)を軸に描かれている。尾瀬沼周辺は、「尾瀬沼」と「尾瀬原」そして尾瀬沼の北に「ひうち山」(燧ケ岳)、西に「志佛山」(至仏山)が記され、東側には「赤安山」も記されている。尾瀬沼に注ぐ5本の川も描かれているが名称は記されていない。実川の下流には「檜枝岐村」と記されている。さらに、檜枝岐村から帝釈山の南側の峠を越えて日光市に至る道も描かれ、「大とうげ」「小とうげ」などと記されている。この絵図を見る限りにおいては、江戸時代の初期には、既に尾瀬沼一帯は人々に知られていたと言えよう。(山内幹夫)

檜枝岐村絵図について2『福島県史料情報』第25号 平成21年10月 福島県歴史資料館)

今回は享和四年(一八〇四)の村絵図を紹介する。同年は、第五代会津藩主松平容頌の時代であった。絵図は基本的に墨描であるが、檜枝岐村を通り、三平峠を越えて戸倉村(群馬県利根郡片品村大字戸倉)に至る、沼田街道のみ朱筆されている。絵図は、只見川と実川の二河川を軸に描かれ、前回紹介した萬治四年(一六六一)の村絵図と比較すると、山名や主河川に流下する沢の名前がかなり具体的に記されている。この時代の檜枝岐村は南山御蔵入として幕府直轄領であった。村絵図において山名と沢名が詳細に記されているのは、林業・狩猟・河川漁業などの生業と直結していたからではないかと推測される。さらに「銀山」と記されている箇所があるが、それは白峰銀山の位置と考えられる。
村絵図に記されている山名では、志佛(至仏山二二二八m)・燧山(燧ケ岳二三五六m)・黒岩(黒岩山二一六三m)・駒嶽(駒ケ岳二一三三m)・八かい山(八海山一七七八m)が記されているが、八海山の記載がなされていることは注目に値する。沢の名前では、実川支流として上滝沢・七入沢、只見川左岸支流として松倉沢・大白沢・原ノ小白沢(小白沢)・小湯ノ俣(恋の俣)・中ノ又・北ノ又、右岸支流として志ぶ沢(シボ沢)・高石沢・とくさ沢・長沢・赤石沢・片貝沢などの名が現在まで残っている。尾瀬周辺では、尾瀬沼・沼しり(沼尻)川・三丈の瀧(三条ノ滝)が記されており、尾瀬平とあるのは現在の尾瀬ケ原であろう。大江沢は現在の大江湿原の場所と推定される。この時代になると、檜枝岐村周辺の山地や尾瀬沼一帯は、詳細に知られ、歩かれていたことであろう。(山内幹夫)


檜枝岐村絵図について3『福島県史料情報』第26号 平成22年2月 福島県歴史資料館)

 今回は寛政三年(一七九一年)十一月に描かれた『檜枝岐上越国界絵図』について紹介する。絵図は只見川と伊南川を軸に描かれている。伊南川の上流には立岩川(舘岩川)が記されているが、舘岩川との合流地点から上流は檜枝岐川と呼ばれている。この絵図の特徴は、当時の街道と村落が記されていることで、只見では叶津を経由して上越に向かう八十里越、朝草山(浅草岳)の南側を通る六十里越も明記されている。さらに、唯見(只見)から楢戸方面に折れて、長濱・泉田・大橋・落合などの集落を経て檜枝岐に向かい、さらに尾瀬沼の東側を経て三平峠を越えて上野国沼田領に抜ける沼田街道も記されている。沼田街道から分岐する道では、駒止峠を越えて針生村(現南会津町)に向かう道や、鳥居峠を越えて金山谷大芦邑(現昭和村)に向かう道、金山谷野尻村(現昭和村)に向かう峠なども記されている。ただし金山谷野尻村に向かう峠は現在利用されず、地図にも記されていない。
只見川の上流部には、白峯銀山が記されている。絵図の上端が上越との国境で、鳥越山や朝草山(浅草岳)などの山々が記されている。さらに叶津の北側には蒲生嶽も記されている。尾瀬沼から檜枝岐川に沿った山並みでは、燧嶽、駒嶽(駒ヶ岳)、梵天嶽、朝日山などが記されている。駒嶽は「同山」と記されている峰を含めて四山の連峰的な記載がなされている。尾瀬については、尾瀬沼のみの記載で尾瀬ヶ原は記されていない。只見川や檜枝岐川上流部については支流の沢について細かく記されている。今回紹介した絵図は、只見・檜枝岐を中心とした地形も具体的に記され、上越や上野方面に至る街道、そして集落が具体的に記され、完成度の高い絵図となっている。(山内幹夫)

萬治4年(1661年)の絵図に尾瀬原という記載があることから、江戸時代初期には既に知られていた。当然「尾瀬原」という名称で呼ばれていたことになる。江戸時代初期にこのような絵図が描かれたということは、尾瀬周辺は中世には林業・狩猟・河川漁業などの生業の場として利用されていた可能性が指摘されよう。享和4年(1804年)の絵図には尾瀬沼の東側を通る沼田街道が朱筆されており、上野国と会津をつなぐ幹線が通り、人々の往来もあり、江戸時代後半期には、尾瀬周辺は詳細に知られていたことが分かる。
 こういったことから、尾瀬ヶ原周辺は、少なくとも中世以降には山間部における生活の場として利用され、かなり詳しく知られていたことが推定される。古代については、文献資料もなく不明であるが、只見川流域や檜枝岐川流域にも縄文時代以降の遺跡が分布していることから、おそらくは相当古くから狩猟・採集の場として利用されていた可能性が考えられる。

時代は現代に至り、国立公園として手厚く保護されることとなり、尾瀬は自然遺産としてその姿をとどめている。今後も末永くその自然が守られることを望んでやまない。